蜂のこと その21

●往復書簡 中村純さんから

わたしは自分がメディエータでみつばちのことを伝えているつもりでいるところがありました。けれどもこの小さな生き物を深く知る人びとに出会うたびに、それはわたしの奢った考えであったと羞恥しています。メディエータはわたしではなく、まさにみつばちそのものだ。
ミツバチ科学研究施設の中村純さんから、5月21日に書いた「蜂のこと その20」のコラムに返信をメールで頂きました。わたしひとりの中にこの共感をとどめておきたくないと瞬時にして思いました。

読んでください、フィールドで体感した声が確かに見えます。

From:中村純
自然や環境への視点は、わたし自身のものではなく、ミツバチの視点だと思います。ちょっ とお話ししましたが、以前とあるNGOの要請でネパールに養蜂指導に行ったとき、山頂まで切り開いてしまった村で、とても養蜂なんかできそうになかったのですが、じゃあここでミツバチを飼うにはどうしたらよいのだろうという疑問を投げかけたら、花や花を育てる水などいくつか必要なものが出てきて、それのもとをたどるようにし向けただけで、村人の口から自然に森の再生ということが出てきたのです。
NGOの働きかけとしてそういう事業もあったのに、いきなり森を再生しましょうというだけでは、いろいろな利害が対立したり、森の必然性が実生活と結びつかなかったり、水が先だとか、何が先だということで収拾がつかない状態のようでした。とりあえず苗床は作ったものの、その苗からイメージされた森の機能はなかったように見えました。それなのにミツバチがどうしたら住めるのかという風に第三者的に考えたら、あっさりと森の機能が必要だということになってしまうんです(もちろんそれを具現化するためにどうするかは別問題ですが)。
森があれば水も得られ、その水で果樹も育つ。木が大きくなれば、薪もとれるし、ミツバチの巣箱の材料も森から得られる。今はほとんどいない野生のミツバチも森に戻ってくる。そのミツバチがいれば、野菜のタネだって自分たちで作ることができる。そういうことが、ミツバチひとつをイメージするだけで見えやすくなると思えました。
自分たちの生活を見直すためにも、一歩引いて第三者的視点で見ることが必要なのに、そのこと自体が何か別の客体がないと難しいのだろうと思うのです。協力隊時代はネパール人は想像力がないと思っていましたが、多分こうした視点移動ができれば、もう少しわかったんだろうと思います。
それは実は今や日本でも必要なことみたいですね。情報の表面的な部分を引き継いだような拡散(例えば自分自身も身を置いている教育もそうですが)は、伝える言葉は立派でも、また言葉の持つ意味自体は伝わっても、その事物の持つ機能性や他の物事との有機的な連関までは伝え切れていないのですが、ああそれって受け手に想像力がないからだと思うことが多いです。環境という場面では、ミツバチのように環境をマルチに利用(飼うヒトの行為も含めて)しつつも使い尽くさないタイプの生物が生きていけるかどうか、具体的に考えてみることもできるんだろうなあ、などとは思っていますが、やっぱりあくまでミツバチの側に立った発想なんです。(05.05.22)