蜂のこと その13

●東洋みつばちのこと

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昨日、養蜂家からもらった蜂の死骸を土にかえしました。
少し埃もかかっていたし、カビもはえかけていたので、とっておくのをついに諦めました。いわてのいちごが食べ種から順調に育っているので、そこへそっと4匹を葬りました。わたしにとっては、ここしばらくのお守りのような死骸だったので、みつばちの好きそうなところへ返してやりたい気持ちでした。
今日は東洋のみつばち種を見たことを書こうと思います。
「東洋みつばちと言われる種は、百済から日本に渡って来たといわれています」と養蜂家はいいながら「あなたに、東洋みつばちも見せてあげましょう」と西洋みつばちとは少し離れたところに置かれた1箱のふたを大事に開けてくれました。
「東洋みつばちは少し小さいでしょう」
開けられたふたに作られた日本みつばちの巣の形状にわたしは見とれていました。幾何学的な六角形と蜜蝋が実に有機的な形を生み出してふたにぶらさがっているのです。まるで宝箱のようだとわたしは思いました。
「日本書記には、百済の太子余豊璋が奈良の三輪山に蜂を放ったという記録があるんですよ。だから、日本の東洋みつばちの原種はそれだとされる説があるんです。これもその原種からのものだろうと思いますよ」と話してくれました。今年は暑い夏に奈良の吉野へ行った時のことを思い浮かべました。神聖な奈良の地に放たれ、とびかう蜂はさぞかし神秘に満ちていただろうと思うのです。
日本の養蜂の形態が文献や資料に現れるようになるのは江戸時代であったとされています。興味を引くのは、幕末にかけて紀州では貞市右衛門が花の開花に合わせて数百メートル巣箱を担ぎ移動する、いわば「転地養蜂の走り」、蜜市流が記録にあることです。やっぱり紀州なのかと思った瞬間でもあります。
そして明治維新を迎え、西洋みつばちのイタリア種が、現在の新宿御苑に持ち込まれ、飼育のしやすいこのみつばち種が普及をはじめて行くのです。