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2006年10月16日

『記憶のつくり方』

長田弘の作品のひとつに『記憶のつくり方』がある。
このところ、週末になると自分の身の回りの片づけをしている。『記憶のつくり方』を何の理由で買って、なぜこんなに長い間読まなかったのかはよくわからない。そして、「この本は読まない気がする…」と手放し組に置いた。置いたはずなのに、急にその夜、やっぱり読んでから手放そうとベッドに入ってから本を開いた。黙読していたわたしは、「夜の火」あたりから、やがて音読をはじめた。

自分の時間としての人生というものの秘密はさりげなく顕われると思う。
木下杢太郎の、とどまる色としての青についての詩を思い出す。

ただ自分の本当の楽しみの為めに本を読め、

生きろ、恨むな、悲しむな。

空の上に空を建てるな。

思ひ煩ふな。

かの昔の青い陶の器の

地の底に埋もれながら青い色で居る--

楽しめ、その陶の器の

青い「無名」、青い「沈黙」。

(「それが一体何になる」)
人生とよばれるものは、わたしには、過ぎていった時間が無数の欠落のうえにうつしている、或る状景の集積だ。親しいのは、そうして状景のなかにいる人たちの記憶だ。自分の時間としての人生というのは、人生という川の川面に影像としてのこる他の人びとによって明るくされているのだと思う。
書くとは言葉の器をつくるということだ、その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ。
--『記憶のつくり方』自分の時間へから--

片づけをしていると時々神妙な心持ちになる。自分が通り過ぎていったものや忘れかけていた欠片が無造作に床に散らばっているからだ。体験から経験にそして追体験が心のなかで起きて、時間や文脈が一時的にぐちゃぐちゃになる。軽く笑いとばせるようなこともあれば、こんな小さなできごとを拾い集めて過去ばかりを眺めている自分が情けなくなったりもする。
「記憶」というものをつないでなにかをつくってきたわたしが、一時、迷いをもって、この片づけの最中に洗濯をする。これは、きれいさっぱり洗い流したいと。できることなら、すべてをリセットしたいと思っていたとき、手放すはずのこの長田弘の文章から足元がすくわれたのは不思議なできごとだった。声が乾き、喉の痛みを感じたころ、あとがきになった。

「記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。」

posted: mitsubako at <08:15AM>

comments:

みつばちは、花から花へ。
みつばこは、本から本へ。
楽しそうです。
よい天気になりましたね!

posted: ya ma@tokyo on 2006年10月16日 09:22

yamaさん、おはよう。本当にいい天気。午後の散歩楽しみにしています。
今日からしばらく、朝起きて書くということにしました。心配性のわたしは、いつでも眠る前になにかを済ませてしまわないと気持ちが落ち着かなくて心地よくねむれなかったりするのです。
だから、どんどん夜指向に。それを朝型にきりかえます。そして毎日すこしづつ書いてみようと思います。

posted: mitsubako on 2006年10月16日 10:14

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