« 体をあたたかく | « Go to main page | 自分の字 »
2005年11月23日
ナヴァホの砂絵
金関寿夫さんの『ナヴァホの砂絵』を読み出している。詩人のぱくきょんみさんの書かれたもののなかに時おり登場されていたのでいつの間にかこの流れがわたしの中にやってきた。
ナヴァホインディアンの祭式の中に砂絵を描く大事な儀式があるという。祭式はナヴァホに伝わる神話に基づいて口誦詩が歌い続けられその中の一部に砂絵を制作する「時」があるのだそうだ。ひととおりの儀式がすめば、彼らにとって砂絵は美術品ではないので、まとめられて、方角に向かってそれぞれ撤いてしまうのだ。
金関さんはこれを何度も「一回性」と告げている。
わたしはこれを読んだ時、すぐにレヴィ・ストロースの『ブラジルへの郷愁』を思い出した。現在を生きるわたしはいかに多くの複製やイメージの移植から二次的に喜びや哀しみといった感情を受けとっているのだろうかと。
金関さんのことばを引用すると「文字というものをもたない民族のことだから、彼らの詩も、砂絵と同じく、本来一回性のものである。ただその中のいくらかが、彼らの頭の中に記憶され、口から口へと伝わってきているだけなのだ。それを白人の宣教師、探検家、人類・民族学者、詩人などが英語に直したもの--したがって原の詩とはかなりかけ離れたもの--が、私たちに読むことができるもので、…」
さまざまなものが翻訳というズレの中に意味を変え様式を変えわたしたちに新しいイメージが生まれるのだと思う。
一回生の砂絵を保存するためにニカワづけにして美術館に収集されているものを見て感動をする。「一回性の口誦詩としての、その根源の神秘に、幾分でも触れるからかもしれない、彼らの生活神話を分かちもたない現代人に許されるのは、せいぜいそれ位の喜び、だがそれだけでも、すばらしい喜びなのである。」
金関さんのいうところの「せいぜいそれ位の喜び」がいかに増えた今の時代だろうか…。
posted: mitsubako at <07:58AM>