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2004年12月31日

ある作家の死

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昨日、夕方になってから久しぶりに朝刊を手にしました。すぐ目に飛び込んで来たのが米国の作家スーザン・ソンタグが死去した記事でした。エドワード・サイードが亡くなった時と同様に、あるひとつの思想の時代が終わろうとしていると感じました。なんとなく脱力感にひたりながらも、目頭が熱くなってしまう自分がいました。
ソンタグは、1995年頃だったかに日本に来日をした時、たまたま通っていた仕事先の上司に連れられて、取材の現場に立ち会わされました。強烈なフェミニストと反戦を唱える強い女性像をイメージしていた私を裏切ることのない、力強い姿でサバサバと現れた彼女に圧巻された記憶があります。

それでも、濃い顔立ちに笑顔がやさしく、なにしろ女性としての「存在感」がある。その時から、中身や素の自分を問うきっかけになった、先輩像のひとりになった人です。
私が初めて読んだ彼女の評論は『反解釈』です。当時、現代美術の仲間たちと、あれこれと展開を試みていた活動に、迷いを払底させるような意気込みの批評の数々でした。
「われわれの経験のなかで芸術作品として分類できないような項目が芸術作品の特質をそなえていることもある。言葉や、運動や、行動や、ものが最も直接的で有益で無感覚な表現方法や、存在の仕方から免れているようなとき、われわれはそれらが、<様式>をそなえているとみなし、自律的で模範的だと見ることができる。」
こんな一文のようなことが反復されて、表現できるものと、できないものの狭間に生み出される矛盾から、作品への手がかりを、私に投げかけてくれるものでした。なかでも<キャンプ>についてのノートは時代を感じさせることばではあるけれど、もう一度じっくり読み返して自分をセットアップするのに相応しいと今感じます。
私が痛烈に刺激された本に『隠喩としての病い』があります。自らの癌体験をもとに書かれたともいわれる論評です。生きている環境の中で、私たちはいかに実際に見えているはずのものを捏造し、不要な恐怖感に脅かされているかということです。1990年代のはじめに、サンフランシスコに1年半ばかりぶらぶらとしていた私は、エイズに侵された友人を亡くしたし、帰国してからの友人の中にも癌で若くして亡くなった者もいます。家族や親戚も癌をわずらったし。そんな病いに対する装飾的な要素をいっさい切り落とし、科学的な態度で病理に向かう、そうした指標をここから見いだしたりしました。
「病気が謎めいて見えるのは、もとを糺せばそこに未知の何かがあるように思えるからだが、病気自体(昔なら結核、今なら癌)がまことに古めかしい恐怖心を掻立てるということもある。ひとつの謎として強く恐れられている病気は、現実にはともかく、道徳的な意味で伝染するとされることがある。たとえば、癌にかかってみたら、癌は結核に似た伝染病だと言わんばかりに、親戚や友達からはのけ者にされ、家族からは消毒の必要な人間として扱われたという人々は驚くほど多い。神秘的な悪とされる病気にかかった誰かと接触するのは違反行為であると思ったり、下手をすると、タブーの侵犯になると思ったりするわけである。病名自体が魔力を持つとされることさえある…」
彼女のこうした見方がすべてではないけれど、多かれ少なかれ、その裏側に潜む大きな力に右往左往しない私を、しっかりと支えてくれた作家だと思えてなりません。久しぶりに疎遠になってしまっていた世界に引き戻してくれた、彼女の死に対し、何かメッセージがあるのではないかと、埃をかぶった本をひっぱり出してみるのでした。

posted: mitsubako at <12:24PM>