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2006年07月20日

火の魚

…永い作家生活の中でも、ひよんな事から、妙にその作品が成功したとも成功しないとも限らないのに、頭にのこって自分だけがそれを大切にあつかふ作品が二三篇はあるものだ、…

『蜜のあはれ』を読んでからすぐに読み始めたのが『火の魚』。『蜜のあはれ』は最後まで読み終えてみると、読書中に感じたこととは別の後味があった。先日、金魚を昇華するとは書いてはみたものの、終わりの印象はまったくそれとは異なって感じた。
後記 「炎の金魚」を読んだからだ。
靄のなかに在りつづける自己を洞察するもうひとりがこれを描かせている、混沌とした内面の暴露であるように思う。

…それでも五体のどこかに不死身のところがあって、幾ら年月が経っても死なない部分が色を変えずにつやつやと生きていて、そこを敲きさえすれば、扉はひとりで開き、中の物が見え聴こえる音は聴こえ、たすけを呼ばなくともたすけてくれる…

この活字を追っているうちにわたしの胸の中が熱くなった。
なんとなく、この世界にもう少し触れてみたくなって、それで続けて『火の魚』を手にした。今、「運命論者」というところで読み進めるのがとまっている。

軽井沢で台風がやって来て、木々が倒れ、川は音をたてて流れるなか、牛乳を運ぶ少年、新聞を濡れずに届けた少年のことが淡々と描写されている。
やがて、台風が去り、夜間に郵便配達が雑誌や手紙の束を届けに来たときのこと。

…汽車が不通だったものですから遅くなりましたと言つて去った後、一層のしづかさを感じた。古い黒い鞄をかかへた配達の人が、今夜は実に遠くから旅して来たような気がした。…

この情景は、いとも自然にわたしの目の後ろの方でイメージと化して、深いため息となる。

…詩を失った詩人は台風のすぎた山野の景色と同じものを、心のすがたに現してゐるものだ。呼んでも帰って来ない詩は、帰って来ないのではなくて、既う私の中に、相果ててゐるのである。…

国木田独歩の小説「運命論者」を台風の去った山野を彷徨いながら記憶の中から呼び起こそうとする犀星。このことばが自分の思いのままであるゆえに、ある作品の一部に題名として残した静かな文章がなんとはなしに好きだと思える。そして大それたことを言うようだけど、「文章うまい…」と呟いてしまった章でもあった。

posted: mitsubako at <07:35AM>