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2008年06月22日

流動性とディスポジション

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週末近くになると急にバイタリティーがあふれてくる。
土曜の午後は「ディスポジション 配置としての世界」(現代企画室発行)の刊行記念シンポジウムに行った。ゲストコメンテータに岡崎乾二郎がよばれていたからだ。シンポジウムは題して「うまくいく」ことの倫理と技術だった。刊行された本は手にとってもいないまま会場にのぞんだ。ディスポジションとは、世の中を均質化・合理化してきた近代的思考を批判して、配置や関係性から主体という認識を脱し、複雑性を活性させていく概念として提示したと考える。若手の批評家として活躍をはじめている柳澤田実、萱野稔人、染谷昌義、大橋完太郎、平倉圭らが哲学、倫理、生態心理学、美術、建築などの領域から世界を横断的にとらえる新しい方法論の創出としてたちあげたものだ。この潮流はおおいに歓迎したい。ポストモダニズム以降の思想の流れからは何も新しいものが生まれていない。批評が弱くなれば現代美術もおもしろくない。もう少し飛躍して言うと、「芸術がだめになれば世界も退廃していく」と思うのがわたしの根底の考え方だ。よどんだのこの現状に突破口を開いて、表現の自由を活性させるために思考の資源を生み出そうとしていることがよくわかる。わたし自身のことを思ってみても、資本主義にすっかりはめ込まれた生活から抜け道を見いだすのは難しく、四苦八苦もがく日々が続いている。何かをかえなければと思い続けている。「ディスポジション」の概念は、こんなわたしに大きな意味をもたらしてくれた。
「つくっては壊れる」というテーマは「みつばちの木箱」の再生プロジェクトをあらわしている。岡崎が言うところの「人為的に構成したものは必ず崩壊する」ということばとリンクしてそれを受けている。テーブル・コンポジションというテーマで身近なものの撮影をはじめて数年が経つ。テーブルの平面を地にして物の位置関係やネガティブなスペースをむしろポジティブなスペースに置き換える試みとして続けてきた。なかなかこれが成立しない。もうひとつ、抽象写真というテーマで工場裏の廃棄物などを被写体にし、接写することで抽象性を高めるという行為を繰り返している。バラバラのテーマ性でありながらも「みつばちの木箱」全体のプロジェクトを最終的にはミニマムな表現にそぎ落として行く工程として様々な視点から取り組んでいる。つまり課題と実験過程を持って一応の着地点を模索している。そこにもうひとつ「ディスポジション」という概念をプラスすれば、わたしの表現はどう変わるだろうか。いや、どう変われるか。
シンポジウムの前に、エミリー・ウングワレー展を見に新国立美術館へ立ち寄った。オーストラリアの先住民族アボリジニの部族として砂漠地帯でボディ・ペインテイングや砂絵を描いていたエミリーは80歳近くになってカンヴァスに絵を描くようになり、その数は4千点にもおよぶといわれる。以前、「ナヴァホの砂絵」金関寿夫著から一回性の詩について学んだことを書いた。カチーナドールなどに共通するプリミティブな神話性とシンボライズが頭に浮かび、すぐにでも作品を見てみたいという衝動からかけ足ででかけた。彼女の作品に純粋に心を奪われてたくさんのインスピレーションをもらった。西洋絵画の知識も教育も受けなかったとされている彼女が、なぜカンヴァスとアクリル絵の具に向かうことになったのかは疑問が残る。オーストラリア政府がアボリジニに対する保護政策の一環として、歴史の修正と観光の目玉といったいくつかの正しくあるべき行為が背景にあるのではと頭をよぎったりする。が、ポリティカルコレクトネス的な発想はとりあえず置いておいて、彼女は本当に自然の中に生きていたからこそ抽象性の高い記号に置き換えて表現することができた。むしろ人類の然るべき姿として当然の証ではないかと感じるのも確かだった。彼女の絵画の前に立ったときジョージア・オキーフのことをすぐに思った。ストイックに生きたオキーフと同等に、むしろそれをはるかに越えた混沌世界から、あるいはドリーミングから生まれた抽象性にわたしは「かなわない」という敬意の念をもって評したい。
かけ足で巡った土曜日のふたつの出来事はまるでかけ離れた線上にあることだった。「うまくいく」ことの倫理と技術は方法論を深く考えてもよし。考えなくても自然界と直接対話できるスーパー・ネーチャー・パーソンがいるという点で、「ディスポジション」は今後のわたしにおもしろい示唆をなしていくような気がしている。

posted: mitsubako at <15:28PM>