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2008年02月03日
やがわすみこやく

先日、東京子ども図書館を本当に久しぶりに訪ねた。松岡享子先生はご多忙なのであろう、残念ながらお目にかかれなかった。人生を子どもと絵本をつなぐ世界にかけてこられた尊敬すべき女性だ。図書館の資料室でゆっくり絵本を読んだ。書棚の上にはそのもっと先輩の石井桃子さんの100年のおはなしを記念する記事が置かれていた。
子どもたちよ
子ども時代をしっかりとたのしんでください。
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは子ども時代の「あなた」です。
石井桃子
心うたれることばだ。ひとつのことに没頭し信念をつらぬいた人の口から出てくる単純であたりまえのようなことばが、なんといってもわたしの心に響いてくる。わたしはこうして日本の児童文学界を築き上げた女性たちに実に豊かな精神の遊び場をたくさんいただいと感謝している。石井桃子やくはもちろんのことやがわすみこやくの絵本をどれだけ読んだことだろうか。
詩人矢川澄子のことを再考しているうちに「ぞうのババール」をもう一度読み返した。幼いころはすっかり自分が絵本の世界に同化して、かすかな体験として残っているものだ。大人になって作者や訳者、時代背景やストリーの構造、キャラクターが見えるようになると、また違った観点で絵本を楽しみ味わうことができる。それは人生を少しだけ理解できるようになった自分を再確認する行為のようでもある。
ユリイカの特集で矢川はブリュノフの親族にファッション関係者が多かったことを、矢川とクララ社との関係とあわせて語っている。the old lady = 「ぞうのきもちならなんでもわかるおばあさん」の訳語をおばあさんにすることが不本意であったこともつげている。
この対談をまとめた文学者の武村知子は対談に寄せてこんなことばを送っている。
「ぞうのきもちならなんでもわかるおばあさん」が出てくるたびに、ババールの自立を見送るほっそりしたその後ろ姿に、遠い山妣(スミコという現象)のことを思った。ぞうのきもちなんかわかって何になるのかしら、みんな行ってしまうのに。でもどうしてか、わかりたいと思ってしまうのよねえ——そういう屈託をまるごと抱えて日々頽れながら生きてきた人の、すくっとした姿のあるページがすきだった。
ユリイカ 総特集矢川澄子・不滅の少女/没したる妣に寄せる
絵本を手にして訳者のことを思うのは不自然なことである。なぜなら訳者は影役者でいわば作者の意図を伝える媒介者だと思うからだ。
リズミカルでおもしろ悲しい「ぞうのババール」は、しかし、やがわすみこが生んで、ずっと子どもたちと共に生き続ける名作なのかもしれない。
posted: mitsubako at <17:42PM>