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2008年01月28日

ぼんやりした日の翌朝

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日曜日はぼんやり体を休めながら、上橋菜穂子原作の「精霊の守り人」のアニメーションを見ていた。本来は原作から読むべきなのだろうけれど、ざっとストリーをさらうのにはアニメの方を選択した。頭の中はそんなファンタジーと同時に、美術館で見た絵画の影響で印象派が人間の内面に与えたものとは一体なんなのだろうか、と夕暮れ時の空や雲を眺めながら考え事にふけっていた。
今朝、読みかけになっていた中沢新一の「対象性人類学」を車中で読んでいたら、偶然にもこんな箇所につきあたった。

芸術による悦楽の追求
それは芸術が、高次元のなりたちをした無意識の働きを、社会の表面に引き出してくる技術のひとつであることからもたらされた特質です。そういう性質は、ホモサピエンスの先祖がラスコーの洞窟にあのすばらしい壁画を描いたときから、すでにはっきりと見届けることができますが、とくに宗教の果たしてきた社会的影響力がすっかり弱くなってしまった近代以降になると、芸術自身が自分にひめられている特質にたいしてより意識的になり、そのことを表現することこそ自分の使命であると考えるようになりました。
19世紀の後半から開始されるいわゆる「モダン芸術」の運動において、高次元無意識への通路を開くことが、大きな主題として追求されたのです。
とくに印象派が出現してからは、この主題の追求はいよいよ純化され、絵画を「様式の革命」と呼ばれるものに、追い込んでいきました。印象派の絵画では、輪郭の消失という現象がおこっています。形態の輪郭が溶解して、内部と外部の隔壁が失われて、そこから光や色彩や生命が画面全体に浸透し出していくようになりました。
さまざまなレベルで「分離」や「不均質化」をつくりだしていた非対称性の思考の産物が、解体をおこしていたのです。そして、風景を描く画家の位置までが同一性を失って、複雑化したり、揺れ動きだしたりするようになりました。
対象性人類学 カイエ・ソバージュV 中沢新一(講談社選書メチエ)より

ここ数日、ベランダのバケツにうっすら氷がはっている。脆く薄い氷の板に目を落とすとミクロコスモスが見えはじめる。

posted: mitsubako at <15:16PM>