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2008年01月30日
いい知らせ

お知らせをひとつ。
表紙絵をてがけてくださっている仲條正義さんの個展が原宿のHBギャラリーで明日(2/15)から開催されます。
2/20(水)までですのでぜひお出かけください。
アクセスなど詳細はギャラリーのサイトをごらんください。
どうしたことか、今号は会社の在庫がもうすでに切れてしまいました。書店のあちこちでもすでに売れてしまっているようで、嬉しいやらいったい何がそうさせるのか複雑な心境です。でも、今日は1年前の今ごろ、いろいろなことで悲しくて辛くて本当に大変な状況にあった自分を思い返すようなできごとがまたありました。ささいなことではありますが、涙がとまらないほどの感情がこみあげてきてしまいます。わたしは自分が本当にやりたいことは何なのかはもうはっきりとわかっています。だから余計にその決断ができないでいる自分が情けなくて、もどかしくてたまらないのです。
今日は、本当に悲しい1日になりました。
1月30日記
日ごろ、自分のしている仕事のことを書くことはほとんどない。なんだろう、わたしの中で納得がいくほどの達成感とか、十分に貢献できているという確かな手ごたえがまだないからだろう。
年があけて新しい号が発売された。嬉しいことに発売から売れ行きが好調だ。応援してくださっているみなさん、いつもどうもありがとう。
今朝は高田敏子の散文をひろい読みしている。
ある詩人は、「現実そのものはつまらないものだ。そのつまらない現実を、少しでも豊かにたのしく変えるために芸術は存在する」と言いました。
人が絶望に落ちこむとき、それは現実をまともに受けすぎてしまうのでしょう。現実の厳しさは絶えず私達を疲れさせますが、その疲れをどういやしてゆくか。それは現実のあり方を様様の角度から見て、自分の励ましとなる思い方を作り出してゆくことなのでしょう。
<……>
詩をかくとき、私は自分の心を謙虚に謙虚にと引き下げることからはじまります。心が謙虚になりきったとき、はじめて、もののよさが見えてくるのは、そのものから教わり、学ぶ心になるからなのでしょう。
よい詩に触れたときの感動とは、詩人の心がどんなにか、たくさんのものから学びとろうとしているかの、その心に打たれるのです。私はよい詩が書けるわけではありませんけれど、一つ詩を書き上げたとき、何か一つ、今まで気づかなかったことに気づくことがうれしいのです。身辺に何気なく存在しているもの、どんなものでも、そのものに近づき、語りかける心を持ったとき、何かを答えてくれるのでしょう。
「娘への大切なおくりもの」 高田敏子より
仕事先のサイトも昨年からリニューアルをしました。毎日、今日の編集部を写真でお届けしています。
posted: mitsubako: on 23:27PM | comments (4)
2008年01月28日
ぼんやりした日の翌朝

日曜日はぼんやり体を休めながら、上橋菜穂子原作の「精霊の守り人」のアニメーションを見ていた。本来は原作から読むべきなのだろうけれど、ざっとストリーをさらうのにはアニメの方を選択した。頭の中はそんなファンタジーと同時に、美術館で見た絵画の影響で印象派が人間の内面に与えたものとは一体なんなのだろうか、と夕暮れ時の空や雲を眺めながら考え事にふけっていた。
今朝、読みかけになっていた中沢新一の「対象性人類学」を車中で読んでいたら、偶然にもこんな箇所につきあたった。
芸術による悦楽の追求
それは芸術が、高次元のなりたちをした無意識の働きを、社会の表面に引き出してくる技術のひとつであることからもたらされた特質です。そういう性質は、ホモサピエンスの先祖がラスコーの洞窟にあのすばらしい壁画を描いたときから、すでにはっきりと見届けることができますが、とくに宗教の果たしてきた社会的影響力がすっかり弱くなってしまった近代以降になると、芸術自身が自分にひめられている特質にたいしてより意識的になり、そのことを表現することこそ自分の使命であると考えるようになりました。
19世紀の後半から開始されるいわゆる「モダン芸術」の運動において、高次元無意識への通路を開くことが、大きな主題として追求されたのです。
とくに印象派が出現してからは、この主題の追求はいよいよ純化され、絵画を「様式の革命」と呼ばれるものに、追い込んでいきました。印象派の絵画では、輪郭の消失という現象がおこっています。形態の輪郭が溶解して、内部と外部の隔壁が失われて、そこから光や色彩や生命が画面全体に浸透し出していくようになりました。
さまざまなレベルで「分離」や「不均質化」をつくりだしていた非対称性の思考の産物が、解体をおこしていたのです。そして、風景を描く画家の位置までが同一性を失って、複雑化したり、揺れ動きだしたりするようになりました。
対象性人類学 カイエ・ソバージュV 中沢新一(講談社選書メチエ)より
ここ数日、ベランダのバケツにうっすら氷がはっている。脆く薄い氷の板に目を落とすとミクロコスモスが見えはじめる。
posted: mitsubako: on 15:16PM
2008年01月27日
「モネと画家たちの旅—フランス風景画紀行」

仙石原の近くにあるポーラ美術館で「モネと画家たちの旅—フランス風景画紀行」と題する印象派の展覧会が開かれている。印象派絵画は日本人にとても好まれるし、とりわけ名画といわれるものは書籍やポスターなど目に触れやすくある意味氾濫している。だが、本物に出会うのにはどれほどの機会があるのだろうか。画集も良いがやはり本物が見れるなら見ておきたい。冬休みからずっと行く予定だった展覧会行きがようやく昨日実現した。
早朝、御殿場インターから真っ白な富士山頂が見えた。何度も見ている富士山だが、絵画やテレビ、流通する旅行雑誌や広告でイメージ化されたものに慣らされていると、実際実物を前にした時の優美さに、はっとするほど圧巻させられる。雪景色の箱根は初めてで、道中、氷の花が咲いた木々を見るとその美しさにわたしの体でない何かが飛んでいってしまう。これを自然との対話といえるのだろうか。
前置きはこのぐらいにして、ゆっくり絵画と出会えるよい展覧会だった。今回はていねいに色彩の組合わせを見ようと思っていたのだ。ゴッホの「あざみの花」は印象的だった。ひまわりのイメージが強いだけにあざみをテーマに描いたことが不思議だった。ギュスターヴ・クールベの作品も数点あった。「風景」の岩は印象に残る作品だった。ポーラ美術館ではこの他に「牝鹿のいる雪の風景」も所蔵している。鹿の作品はとても好きなもののひとつだ。蛇足だが、今日あたりまでフランスのグラン・パレのギャラリーで大回顧展が開かれている。とても行きたかった展覧会だ。帰ってから久しぶりに「絵画が偉大であった時代」阿部良雄(小沢書店)を開いた。なぜならここにクルーベのことそして印象派百年を綴った文章があるからだ。クールベの「画家のアトリエ」については教えられたことがたくさんある。
——1891年にマラルメが、『文学における進化について』のジュール・ユレのアンケートに答えて、あるオブジェ(物体、対象)を名付けるのではなく暗示するところに市の妙味があると、象徴主義詩法を一般向けに分かり易く説いたくだり——
——ある特定の時刻における大気と光の状態の下に風景の与える効果あるいは印象を、修正なしの素早いタッチで描き上げる戸外制作には、小さな画面が適している。
「絵画が偉大であった時代」阿部良雄(小沢書店)/ 印象派百年——絵の小ささについてより
印象派絵画展のわきで小さく「熊谷守一 自然との対話」展も開催されていた。そこに書かれていたことばのひとつはこんな内容だった。わたしの描く画額サイズを意味があるように言う人もいるが、それは単に持って歩くのに都合のよいサイズが4号だったからというだけだ。
画家は新しい手法をもとめて旅をした。資本主義経済の背景下に、旅もある種のパッケージ化されたテーマパーク的な要素を秘めたものとなった今日、わたしはどんな手法を求めて次世代のかけらを残せるだろうかとふと思った。
絵を真剣に見た後、急にお腹がすいたので湯本まで降りて、知客茶屋で豆料理を食べてお土産に味噌豆腐を買って帰った。
posted: mitsubako: on 11:39AM
2008年01月24日
雪の読書
関東地方にも昨日雪が降った。
冬の間に読もうと出してきた本や新しく買った本が1冊。猪谷六合雄の「定本 雪に生きる」、無着成恭の「ふぶきの中に」の詩集で新しく買ったのは、念願の前田夕暮の「雪と野菜」だ。
空気がぴりっとしている季節に読んでおきたいと思っている。本棚の奥の方から「そうだ、そうだ」と思って取り出してきた翌日に偶然にも雪が降ってくるとは、きっと自然現象が知らせてくれた「よき知らせ」なんじゃないかな。さっそく中沢新一のあい間に読みはじめようと思う。それからぼんやり雪を眺めて見ていたい願望もあるからなのかもしれない。


posted: mitsubako: on 08:21AM | comments (2)
2008年01月22日
ミクロコスモス

もう何年も前のことになるが。レイラインやバイクツーリング、アウトドアに必要な基礎的なテクニックを専門に、記事を書かれている内田一成さんから中沢新一の本をすすめられたことがある。すぐに読むことができずにいたが、その後も二人の方からやはり中沢新一をすすめられ、そして最近になってまたもや。すすめる理由やアプローチはそれぞれに違うものの、こんなに人から言われるのだから「何かあるにちがいない」と思い、まずは著書のなかでも軽めの「ミクロコスモス」1巻を手にしてみた。
何かあるにちがいない「何かは」クロード・レヴィ=ストロースだった。レヴィ=ストロースの「蜜から灰へ」はわたしにとって必読中の必読書で、今もまだ途上をさまよっている。学校や授業できちんと哲学や思想を勉強してきたわけではないので、自分で理解をしていくためにさらに別の本を読んだり、人の話を聞いたり、わき道にそれたりしながら人生をかけてていねいに読み、読むだけではなくて解釈から自分のモチーフの検証をしていきたいのだ。その道のりは長い。生きているあいだにたどりつけないかもしれない。そう思いながらも中沢新一を通して理解できてくることが多いはずだと期待でわくわくしている。読書で学べることはたくさんある。心が救われることもたくさんある。感情をゆさぶられること、軌道修正をすることもある。偶然ミクロコスモスというタイトルでわたしは写真を撮影していた時期がある。ミクロコスモスが連鎖する連続性と切断のすきまにマクロコスモスが立ち現れるのだろうか。
posted: mitsubako: on 23:10PM
2008年01月21日
ちえの木の実
絵本のことってどのぐらい自分は知っているんだろう。子どもの時にたくさん読んでもらって、自分でも読むようになって、小さな親戚ができると今度は人に読んであげて。短大生になって絵本の勉強をしたり、自分でつくったり、お話を覚えたり、子どもたちにお話したり……。それからしばらく休息をおいた。
その し ば ら く の間にいろんなことを人から教えられたり、感じたり、想ったり、考えたりした。
今、また絵本を見ると新しく感じることや刺激を受けることがたくさんある。神話の構造や時代背景、精神論がちょっとだけ見えるようになると作者のことが気になるようになる。もう一度、いろいろな価値観をぬぐい去ってゼロから絵本を今の等身大の感性で読んでみたいし出会ってみたいと思っている。そんなきっかけをつくってくれた大きな人に感謝。
渋谷にちえの木の実という絵本専門店がある。昔は童話屋が大好きで通っていたのに、なくなってしまいそれ以来ちえの木の実に立ち寄ることがある。今日もお店に行ってゆっくり絵本を見ていたら、とてもお年をめしたおじいさんが入って来た。店員さんは顔見知りのようで、いわさきちひろの絵本を何冊も木のテーブルに持ってきてあげて「どうぞゆっくりご覧ください。」と静かに声をかけていた。おじいさんはそのとおりゆっくりと丁寧に絵本の頁をめくるのだった。
なんでもない日常のこうした小さな出会いと親切なやりとりに心がとても穏やかになった。日頃、仕事先ではいい顔もしていられない現実が多々ある。淡白な態度で対処していかなければならないこともある。それは自分の気持ちに反する行為でありながらも、自分が倒れないためにするのだと思う。そういう姿はあまり好きではないけれど、どこかで仕事とわりきっているからなのだ。本来のわたしをとりもどしたいなら、会社という組織集団からはやっぱり身をひかなければだめなのかなとこのごろ思ったりもする。
自分の好きな世界にすっと入れる子どものような心をとりもどしたいな。そしておじいさんのようにテーブルでいつまでも絵本の頁をめくっていたい。
posted: mitsubako: on 23:16PM
2008年01月20日
赤かぶのスープ
久しぶりにインターナショナルマーケットに寄り道をした。スイスの朝市で見るような野菜が3倍ぐらいの値段で空輸されて店先にきれいに並んでいる。なんでも手に入るのだが、自粛をしたい気持ちにもかられて、しばし複雑だ。安い赤かぶを買い物かごに入れた。英語ではビーツと呼ばれているかぶで表面の渋い皮の色からは想像できないワインレッド色の中身が出てくる。ロシア出身の友人宅ですごした時、赤かぶのスープが出てきて体が温まり甘酸っぱくてスパイシーな味に虜になった。以来、自己流レシピだけれど大好きなスープだ。だし汁は和風にしている。昆布とかつおでとった汁に鳥と豚をあわせたひき肉の肉団子を作る。ショウガ、にんにくなどを入れるとおいしい。そこにたまねぎやパプリカ、かぶ、トマトなど好きな野菜を入れて赤かぶと一緒にぐつぐつ煮る。味付けに塩とレモンを入れて後は好みで食べるときにサワークリームとフェンネルを散らす。
わたしの料理は素材をみつけてなんとなく頭のなかでこれとこれを一緒にしてやってみようというおおざっぱなもの。今日はこのほかにズッキーニとペパーミントのサラダに茨城産のあやめ雪という種類の美しいかぶのサラダにしてみた。思いつくときはやる気まんまんになるけど、まったく作りたくない時もある。
体が自然に欲するものはきっとその時の体調なんじゃないかと思う。


posted: mitsubako: on 16:59PM | comments (2)
2008年01月16日
Days kugenumaにて

午後になって急に思い立って鵠沼海岸のカフェに友だちと夜行くことにした。正月も連休も休んでいたのでちょっと外気が吸いたくなった。
photologで知った古田晃広さんの小さな個展が開かれていたので行ってみる気になった。肖像写真を撮ることを中心に活動されている方らしい。家族の温かいふれあいや深い愛情を持って撮影された写真は何十年も昔の日本を思い出させるような、それでいて現代の家族像でもあるところがおもしろい。心にひっかかったので足が自然と遠い湘南へと向いたのだろう。愛を素直に表現するとこうなるのかもしれない。この純粋さがちょっとうらやましいなと思った。
カフェはシンプルでいごこちがいい。気取らない商店街の片隅にあるご飯やさんだ。
古田さんの写真アルバム
カフェはDays kugenumaで1月29日までさりげなく写真が飾ってあります。
posted: mitsubako: on 00:05AM
2008年01月14日
めし
年始からひいている風邪がなかなか完治しないので、外出は控えている。
こんな時はDVDを借りてくる。成瀬巳喜男の作品をもう少し知りたくて「めし」と「山の音」を選んできた。どちらも原節子が出ている。小津安二郎を90年代にむさぼるように見ていたわたしは、このふたりの差異化に関心がある。使う俳優、ロケの場所、扱うテーマなど類似点は多いが成瀬らしさはすぐに感じとれる。小津の極限まで簡素化された作品構成は大好きだが、今どちらが好きかといえば、もしかすると成瀬の方に軍配が上がるかもしれない。
「浮雲」にしても「めし」(原作:林芙美子)にしても聡明な女性像と曖昧な男性像がからみあっている。「山の音」(原作:川端康成)にいたっては、嫁、姑、母、娘、愛人そして父の人間模様がくっきりと浮かび上がる。男性の存在は、それぞれの立場に在る女性の輪郭を出すためで、中心は女性であるところがおもしろい。成瀬は女ごころをうまく読み解いていると思うし、女から見た男性像も見事に描き出していると思う。成瀬の女性像は精神が自由で自立する大人の女性がさっぱりと描きだされている。それに比べて、母子関係から自立しきれていない日本の男の姿がたよりなく演出されている。はたして、21世紀をむかえた現代、わたしたちの家族関係はどうだろうか。家族が向き合わない希薄な関係は、自由へ向かって精神の自立にかける人間形成を逆に後退させてはいないだろうか。
小津安二郎と成瀬巳喜男のカメラワークで大きく違うと感じる点は客観性と主観性だ。小津の作品は四角のフレームをいつも外側から傍観している感覚を受けるの対して、成瀬は主体性が強いと感じる。あちら側(演出者)からカメラを見据えているように感じることがあるからだ。それにしても原節子は美しい。演技が未熟なのかそれが演技なのかはなぞを残す女優だが、彼女が居ることで周りの女優がより円熟している空気をかもしだすことに成功してる。時間のゆるす限り、今年はまた映像作品もたくさん見ようと思う。
林芙美子の原作も読んでみたいと思っている。
posted: mitsubako: on 11:41AM
2008年01月06日
少女/反少女
あけましておめでとうございます。新しい1年もまた細々と自分の思いを綴っていこうと思っています。
1週間の休みは長いからと、あれこれやりたいことをいっぱいに浮かべてわくわくしていた冬の休暇。そのほとんどを風邪で寝て過ごした。
休みになるとどういうわけか具合が悪くなってしまう。首筋や肩甲骨、背骨から腰にかけて節々が痛み、体の内部から疲れの膿がじわじわと出てきているような気がした。単純に体に溜まった疲れだけではなくて、心の奥底の方から納得できずにいる気持ちとか、ストレスとかそんな日頃もやもやと鬱積したものが、こうして熱と痛みによって放出され、浄化していく。薬でとめずに出してしまおう、そうすれば気分もぐっと楽になるはず。
風邪をひいていなければ、きっと野原へ散策に出かけていたかもしれない。
おかげで、積まれた本の中から読んでみたり、借りてきたビデオやDVDをごろごろしながら見て過ごした。カルロス・サウラ監督の「カラスの飼育」、ニーツチュカ・キーン監督の「ネズの木」、フィリップ・カウフマン監督の「ヘンリー&ジューン」、アキ・カウリスマキ監督と成瀬巳喜男監督の「浮雲」2作。
矢川澄子のユリイカの対談や「アナイス・ニンの少女時代」、「父の娘」たちを読み終え、今はメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を半分ぐらい読みかけている。
「ネズの木」はグリム童話の原作をアレンジした映画で、魔女狩りや父と子、母と子の原点、アレゴリーのこと、そして深層心理などさまざまなテーマが濃厚なスープに凝縮された美しい映像作品だ。
偶然、「矢川澄子作品集成」にグリム童話とゲーテのファウストを題材にした「ねずの木」の根かたからという短編があるのを見つけた。
恋人ファウストに捨てられ、母殺し・嬰児殺しの罪を犯して狂ったグレエトヘンが、獄中で口ずさむのがこの唄です。
あはれ、我身を殺ししは
うかれ女、我母。
あはれ、我身を食ひつるは
をそ人、我父。
冷やかなる奥津城に
小さき妹
我骨を埋めつ。
羽美しき森の小鳥とわれなりぬ。
われは飛ぶ、われは飛ぶ。
(森鴎外訳)
少女のようでいて反少女的な世界をまるで夢遊病者のようにいきつもどりつしているうちに、風邪もようやく峠を越えそうだ。
さあ、現実の生活にむかって!
風邪で先延ばしになってしまった友だちたちにも早く会えますように!
posted: mitsubako: on 18:22PM | comments (4)