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2007年12月26日
仲田智の個展

12月22日曇り。午後、最終日の個展会場ギャルリー東京ユマニテに友だちと行った。
仲田さんの作品は何度も見てきたし、茨城にあるアトリエで無造作に置かれている作品にも触れてきた。今回の個展は早くからはがきをもらっていたにもかかわらず、ここに会期中に紹介をしなかったことが悔やまれる。ごめんなさい。これまでと少し意気込みが変わったなと思えたからだ。
仲田さんの作品は無意図的で、自分の生活の日常がそのままマイペースに、行為あるいは労働して積み重ねられているところに魅力があるとわたしは思う。これからどんどん活躍をしていく作家のひとりだと思う。
冬のあいだにたき火をしに行きます!
仲田智さんのサイトはこちらです。http://www.nakata-satoshi.com
posted: mitsubako: on 13:13PM
2007年12月25日
矢川澄子

小さいころから絵本に親しんで、大きくなってもまだ絵本を読んでいるわたしは翻訳のことばを媒介してずいぶんと長いこと矢川澄子に触れてきていた。父性の発明、父性の役割、母性の文学。広く芸術を探して理解を深めていく上でこれらのことばが浮き上がってくる。
絵本は詩だとこのごろ思う。そして絵本というかたちを象った詩は最高の芸術だとわたしは考えている。本物の絵本はいったいどこに在るのか。
女性として名こそないけれど、これから紡ぎだしていこうとするわたしの形は、ひとりの人として大地に立つということのほかないのかもしれない。
素足でも力強く真に在るものを求めて歩いていくこと、これからそんな月日を大切に生きていきたいと思う。
posted: mitsubako: on 07:55AM
2007年12月24日
ガラスの雑草

都心はクリスマスのイルミネーションでいつの間にか空虚なライトアップに踊らされている。
小さな北欧の小物を扱う店に立ち寄った。フィンランドのデザイナー、オイヴァ・トイッカのガラスを見つけた。わたしはミニマリスティックな表現が好きなはずだのに、こうした有機的な柄に弱い。自然界の中でも花はあえて避けて撮影もしないし、描こうともしてこなかった。花鳥風月に対してのある種の偏見と、自分の中で低いものとしての順位があるからだ。が、この頃そうした価値感からくる自己コントロールを緩めていこうという内面革命が起きている。もっと自然体で感性むき出しのままの大らかなものごとの見方をすればいいと。
ガラスの雑草は、霜に閉ざされて枯れ行く植物を憶いださせる。凍る植物が大好きなわたしは、そろそろまたそんな自然界に帰っていきたい季節(とき)なのかもしれない。
posted: mitsubako: on 12:23PM
2007年12月16日
ことばを形成するところ

風が冷たくなってきた。大好きな冬の到来だ。
ゆっくりとあたため続けてきたものがある。たとえ日常の雑事に追われたとしても、そのわずかな時間をつないで切断されないように向かい合ってきたつもりだ。この冬は、わたしが原点にした作品を、もう一度ていねいに見たり、聞いたり、読んだりしようとしている。何歩か先へ進んだ分だけ後戻りもしてみたい。
直感も大切だけれど、ことばを深く考えて、意味がダイナミックに躍進するように、再構築のシステムをまた木箱の中でころがしてみたい。
ミツバチのささやきを今日も見た。わたしの原点となったこの作品が新しい息吹をまた吹きこんでくれた。わたしのことばを形成するところとは、羽音のささやき以外になんだろう、と。
posted: mitsubako: on 22:18PM
2007年12月09日
ファンタジー・スケッチ

岩波書店から出ている「センダックの絵本論」を少し前に読んだ。その中にファンタジー・スケッチという章がある。モーリス・センダック自身が想像力とテーマを紙の上で形にする訓練のために5年間ほど描いたものの一部だ。それは意識の流れの落書きだったり、夢の絵だったり、センダックの心象描写で強迫観念やあるいは、アイディアが見え隠れしている。彼の創作の原点はこれだった。
並行して藤井貞一が「父性論で文学を必ずしも読み解かなくてもいい、自由であれ」と、いったことが、絵本=詩、あるいはそれらを大義でいうところの芸術というとらえ方のなかで、今わたしに構造として見えはじめてきている。
伊丹十三を媒介として精神分析に触れながら、大江健三郎のテキストの文脈を参照し、絵本という視覚化されたものの先に詩が存在している。そしてそれをとりまく四国の深い森と濃霧が日本人というアイデンティティーをわたしにつきつけてくる。
ひとりの人間の精神論と自ら死を選ばざるをえなかった結末は、池の水鏡に映るナルキッソスと連鎖する。複雑にからみあった情報を紐解いていくと、人は意外と単純な関係の中にいるはずなのに、見えなくさせているだけなのかもしれない。
考えごとでいっぱいになったら、自然の中で一度からっぽになって生命の循環を見て再び帰ればいい。それ以上の物語性も寓意もないのではないかと、このごろ思うからだ。
posted: mitsubako: on 22:34PM
2007年12月02日
まぶしすぎる

晩秋とまだいえるのだろうか。
ぐっと太陽光線は弱くなったはずなのに光る種のあたりはまぶしすぎる。
森林で落ち葉が降り積もった土のかおりをいっぱい胸にすいこんで、なんでもないようなことに驚いたり感じたりする生活をしたいなと思う。
posted: mitsubako: on 23:15PM