« 2007年06月 | « Go to main page | 2007年08月 »

2007年07月29日

DVD PLAYER

ようやくポータブルDVD PLAYERを買った。ビデオレンタルから遠ざかっていた理由はどんどんDVD化されて、ビデオテープというアナログが消えつつあるからだ。別に映像のデジタル、アナログにこだわりがあるわけでもなく、ただ自分がどんなスタイルでこれから先こういうものとかかわっていくんだろうかと見当がつかなかったからだ。メディアの選択は自分の生活の選択とつながっている。
ある時期わたしは、ビクトル・エリセ、アレキサンダー・ソクーロフ、アンドレ・タルコフスキー、ジョナス・メカス、アモス・ギタイ、アッバス・キアロスタミ、アキ・カウリス マキ、ジャン=リュック・ゴダール、ヴェルナー・ヘルツォーク……などなど1日に何本もビデオを見まくって、ユーロスペースやアップリンクにも通っていた。もてあます暇な時間、詩と映像作品を自分の中に吸収しようと貪欲になっていた。生活の変化やメディアの形体の変容に伴ってそうした時間の過ごし方はいつの間にか自分の中から消えていった。
単純にいい作品と出会っていたい、いいものに触れていたいという思いがまたどこからか降りてきて、それにみあった環境は自分で築いていこうと思うようになっている。
大好きだった作品も通り一遍に過ぎてしまうと、ただ消費された過去の遺物と化してしまう。
好きなものを好きなだけ何度も見よう。
本も音楽も映像も。その作品を通って自分の誇りとなるまで愛着を持ってみたいと思う。
そして時と共にもう自分には必要じゃないものとすっきり別れてスマートに過ごしたい。

posted: mitsubako: on 12:26PM | comments (2)

2007年07月23日

「蜜と眼」

RIMG7606.jpg

A-thingsのトークイベントで0号という特異なサイズがふとした日常の経験から誕生していると聞いた。
キャンバスはパンをトーストにするサイズに統一されていて、まるでバターを塗る行為から連鎖が生まれ作品に転じていく。これだけでわたしはお腹いっぱいになるような、豊かな感覚が体全体に充実感として広がっていくのを感じた。林道郎氏は今回、発売された作品集『ZERO THUMBNAIL KENJIRO OKAZAKI』の巻末で「蜜と眼」と題して岡崎の作品を語っている。
このタイトルがまたわたしにはたまらないのだ。作品のここかしこに蜜を見ていたわたしには何かひとつ、自分の探しものがある解決に導かれたと思えてならない。
不思議だけれど、感謝の気持ちで熱くなった。
誰に言おう、誰になんだろう、どうもありがとう。

作品集『ZERO THUMBNAIL KENJIRO OKAZAKI』定価1890円
一般の書店では手に入りにくいので、ご希望の方はメールでご連絡ください。

posted: mitsubako: on 06:11AM | comments (2)

2007年07月22日

かわせみ

RIMG7610.JPG

土曜日の午後2時、吉祥寺のA-thingsで開かれている「岡崎乾二郎 ZERO THUMBNAIL」展で松浦寿夫氏(画家/西欧近代絵画史)と、林道郎氏(美術史/美術批評)によるトークイベントがあるので出かけた。岡崎さん不在で行われることに好奇心もあって楽しみにしていた。
わたしの最寄り駅に歩いて行く細道の途中には湧き水が出るところがあって、近隣の住民はそこを小さな池にして鯉や金魚を飼っている。通りがかりの人をほっとさせるスポットだったりする。いつものようにぼんやりいろんなことを考えながら歩いていると、突然バシャと水しぶきがあがり、るり色に光るものが一瞬のうちに飛び去った。
わたしは幻覚を見ているのではないかと自分の目をうたがった。でも、確かに青くきらきらと光る美しいものを見た。かわせみ、きっとかわせみにちがいない。
同じ夜、すっかり暗くなった夜道を戻りながら、もういるはずのない青い光を確かに見た場所で確信を持ちながら家路へと急いだ。
家に着くとまっしぐらにかわせみを調べた。一体こんな都心にかわせみが棲息するんだろうか。どうやら、いるらしい。夢じゃなかった。
それから「かわせみのマルタン」の絵本を引っぱり出してきて読んだ。かわせみはつがいでしか生きられない。相手が死ねば、やがて残された一羽も後を追って死んでしまう。

どうして今日あんなに美しいルリ色に偶然出会えたんだろう。それをそのまま、嬉しい予感の暗示にしたいなと思って眠った。

posted: mitsubako: on 15:12PM | comments (4)

2007年07月17日

翻訳

RIMG7604.jpg

長い間願っていたことがひとつ叶いました。
「みつばちの木箱」の英訳ができました。タイプライターのような文字でトレーシングペーパーに印字しました。赤い帯でとめたこの11枚は明日、チリに飛んで行きます。
ゆっくりですが、わたしの夢は少しだけ前に進んで、またもどったりしながら形になっていきます。次の一歩に向けて変容を続けます。

posted: mitsubako: on 07:12AM | comments (3)

2007年07月15日

直彫り

台風通過の連休、ようやく港千尋さんの「文字の母たち」を読んだ。
「書物は建築である」という冒頭の一文になんだか熱くなってうなずいたからだ。王の文字、王の身体にたとえられる王政の権力下に制作されたフランス語書体。パリ・フランス国立印刷所の図書館で港の目をひいたのは、大判で皮張り背表紙の「漢字西訳」だった。
ナポレオン一世の命令で1813年に編纂された中国語、フランス語、ラテン語の対訳辞典だという。ヨーロッパにおける漢字の活字化が他の文字の制作過程とはかなり異なっていることに港は注目している。
彫刻するだけでもかなりの数となる活字をいくつかの部首によって分類し、分合活字の方法を用いていたことは面白い。詳細は是非、本文に触れていただくとして、中国で生まれた活字が朝鮮にわたり、のちに西洋の活版印刷の発明後、ヨーロッパで活字化され、キリスト教と共にふたたび東の文化圏に戻ってきた漢字。長崎に伝授された活版印刷技術を学んだ一日本人の技が、現代に続く明朝体活字の始まりであったというから活字のもつ壮大な記憶に胸が熱くならないではいられない。活字は母から生み出され子へと伝達される身体の記憶だ。
活字の母型製造は精密な種字の彫刻をもとに型どりをする。この種字は種字彫刻師の直彫りの技術にかかっている。肉眼ではとうてい見えないような細かい字形をルーペでのぞきながら、しかも逆文字を直に彫るのだから。これはまさに身体の生き写しのような行為、魂が打ち込まれる過程といっても過言ではないはずだ。わたしが一番感動した一節を引用しておきたい。

字を彫る人の姿勢は、ルーペを使っているとはいえ、基本的には字を読む人の姿勢と同じである。彼や彼女は椅子に座り、小さな字を見つめる。そのとき字を彫ることは書物のアルファであり、印刷された字を読むことは書物のオメガであるが、その最初と最後がひとつにつながるように、同じ身体によって担われていることが、重要なのである。
その身体感覚は、おそらくデジタルの時代にこそ求められるものだろう。文字を作り出すことと読むことを結びつけ、書物のアルファとオメガをつなげるためには、これまで人間の手によって彫りだされてきた、すべての文字が必要になるだろう。それらの母型をとおして立ち上がる記憶は、未来の書物の血肉となるであろう。
「文字の母たち」港千尋 インスクリプト

あらためて、テキストを意を介して読むのではなく、テキストと余白が作り出す造形的な、あるいは建築的な構造を読みとっていきたいと感じる一文であった。

posted: mitsubako: on 23:11PM | comments (1)

2007年07月09日

小さい桃

RIMG7541.jpg

窓辺からさっきまで見えていた枝が切り落とされた
果実は夢想の扉を開いて 桃源郷へころがりおちた

posted: mitsubako: on 06:07AM

2007年07月07日

赤い夢

RIMG7449.jpg

赤い粒子は集まって 褪せない夢を構成する

posted: mitsubako: on 11:08AM

2007年07月06日

柑橘系

RIMG7444.jpg

みつばちが好んで集まるからよく見てみると華麗に見えていた小さな花なのにちょっと色気があった

posted: mitsubako: on 22:01PM

2007年07月03日

赤の採集

RIMG7471.jpg

posted: mitsubako: on 22:06PM

2007年07月01日

あまずっぱい

RIMG7534s.jpg

水彩絵の具を使うとしたら 心に想い描く色は こんな色がいいと思う。

posted: mitsubako: on 21:56PM