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2007年05月24日

群崩壊症候群

イタリア、スイス、アメリカ、カナダと各国からミツバチの群崩壊症候群が伝えられて来たのは去年から今年の冬あたりだった。
ある日、巣箱からミツバチの姿が突然に消えてしまう。ウイルスなどによるミツバチの病気が原因であれば、死骸もありそうなものだが、巣箱周辺には一匹の死骸も見つからないから謎めいている。自然科学界では、農薬や抗生物質などのストレスによるものかもしれないとの見解もあるが、詳しいことはわかっていない。わたしは、もちろんこの現象に驚きと自然界に何かを暗示させる行動であるとは思うものの、一方で「群崩壊」の響きに感化されていて、これに返す表現をずっと考えている。なぜか事態をただ深刻に受け止めて眉をひそめているというよりは、天にむかってぱらぱらと散っていく蜂の姿を思い浮かべては、愛おしいがゆえに哀しさを胸にせずにはいられなくなる。
なんだって崩れてしまうことはある。自然のすごさはそれも含めて生の存続に立ち向かっていることだと思う。
明日は大きな決意がひとつある。この時ばかりは光をどうか与えてくださいと願うのみだ。

posted: mitsubako: on 22:12PM

2007年05月22日

空が明るいうちに

夕方の空が明るいうちに仕事先を出た。
杖をついて歩く老人、子どもの手をひいていそいそと帰る通勤姿の母子、自転車の買い物かごをいっぱいにして元気に走る主婦。どんな大都会の谷間にも生きて暮らす人の姿がある。夕方になると母親のことを急に思うのはなぜだろう。幼い頃の街角にあふれる人々の様相から大きく変化を遂げたとはいえ、象徴される夕方の風景ってあるなぁとふと感じる。
ここ数十年、日のあるうちに仕事から帰宅できた日なんてあっただろうか。わたしの背中と足元を照らすのは大概、月と星空だった。一日中人にもまれ、夜道でほっと一息ついて、ひとりの時間になれるのは、眠る30分前。
夕方を思って、夕方から夜をゆったりくつろぎに使うことだけでもどんなに豊かでありがたい時間だろうと思えてくる。
明るい空に、早々と登場した三日月に「ありがとう」と挨拶をしてみた。

posted: mitsubako: on 22:36PM | comments (2)

2007年05月15日

夜の柑橘香

あちこちの庭先で小さな白い花をいっせいにつけた甘夏の樹木に、蟻たちが集まっている。ふんわり浮かぶ白い雲のように、つかみどころはないけれど、やわらかに包みこまれるように嗅覚が誘われていく。初夏の夜道は柑橘香に漂いながら異国情緒な夢を一つ、ぽろんと落ちかけた白い花を一つ、手のひらにのせた。

posted: mitsubako: on 06:41AM

2007年05月12日

n°の模索的表現

上昇思考のための詩的マニュフェストを宣言したのにはあってないような理由がある。わたしのゆらぎの中に長年の末ある決意がまとまったからだ。個人的な節目は記念日や誕生日、卒業や就職などのように決まったときに起こるものとは異なって、ある日突然のように目覚めるから驚く。
宣言をしたからといって到達地点がはっきりと見えているわけでは決してない。ただ、脆く壊れやすい心を救う1本の線を引いたにすぎない。
数年取り組みを続けていることに、具体的なみつばちのモチーフを使わずにその存在や痕跡を暗示させる素材として花粉を選び収集をしている。みつばちの幼虫にとって重要な蛋白源になるといわれる花粉を摘んでいるとやみつきになる。巣箱の入口付近にふたつみっつと散らばる橙や黄色の花粉だんごほど、象徴的なのに所在なさを感じさせるポエジーはないにせよ、直接的なみつばちの介入がない花粉には、なんの因果関係も見つからない。見つからないからこそ、あえて結びつきを見つけだそうとするリアクションに対話が生まれてくると思う。
乾燥した植物の繊維はまるでタペストリーのような風合いをもち、その細部は毛1本でも驚きをかくせない質感と色彩を持っているものである。
わたしは午前中の明るい窓辺から射す光の中でテーブルに向かって花の解体や仕分作業をするのに余念がない。ピンセットで一粒ひと粒集めていく花粉、集めても集めても小さな試験管の底が微かに色づく程度しかひと春に集めきれない。繰り返す無意味なこの行動と行為はただみつばちの模倣にほかならない。
その時感じた感覚を構成してデジタルカメラで記録する。記録と記憶から色彩の喜びを抽出したり、ことばに置き換える作業をしている。
ミクロなこの世界は自己完結型に陥りやすいと、時折自分を戒めては、ヴォルフガング・ライプやジャン=ルイ・ボワシエ、アグネス・デニス、ヨーゼフ・ボイスとさまざまな作家が追いもとめている先を理解してわたしの解釈に拡張を続ける。模倣的研究から新しい解釈や反発も生まれる。
ひとりごとのような模索的表現から真に必然とされるものだけを差し引いて残すためにわたしの日々をささげて生きていきたいと思う。

posted: mitsubako: on 13:08PM | comments (0)

2007年05月11日

青いシグナルの一群

巣分かれをした蜜蜂の一群が青色の信号機に留まるというニュースがテレビや新聞で報じられている。蜜蜂の分封を知っていれば、この行動自体はそれほど驚くことではない。駆除をするくらいなら、養蜂家にお願いをして新しい巣を用意して入れてやればいいのにとみつばち好きのわたしは思ったりする。
自然溢れる岩手のある地域でも、分封した蜜蜂が電柱に集まっているという話しを何度か聞いたことがある。空洞の電信柱のボルトの穴から中に入ることもあるらしい。
なぜ青信号に留まるのかと疑問もあるようだが、それなら蜜蜂の研究で知られるカール・フォン・フリッシュの「ミツバチの不思議」の蜜蜂の色覚についての章を読むと興味深い。人間と昆虫の色覚の違いや色のスペクタクルを認知する幅が違うことなどがわかってくる。人間と蜂はどうやら異なる色の世界を見ているし、花の方は環境に応じて生きるために都合のよい花の色を紫外線を通して表出しているようだ。そうなると色とは概念的にとらえてはみても実は仮想的な虚構の世界であったりするのかもしれない。
*花展 カール・フォン・リンネ 国立科学博物館

posted: mitsubako: on 19:07PM | comments (0)

2007年05月10日

浄められた夜

かつてウィーンに滞在中、イリ・キリヤン振付、シェーンベルクの「浄められた夜」を見たことがある。
音楽を鑑賞することから長い間離れている。物理的に音を聴く装置をなくしてしまったということもあるが、音を聴くことと同時並行でテキストを書くことは困難だし集中ができない。音はさもすると感情に訴えてきて、主観や感傷に陥りやすい条件をそろえてしまうからしばらく避けていたところもある。
レコードを片付けて捨てることにした。アナログのレコードのすばらしさは承知しているつもりだが、コンパクトで執着や固執しない生活を優先するならば、ここで別れを告げるのもいいかと思った。レコードとレコードの間にカンディンスキーと音楽を特集したニュースレターが見つかった。カンディンスキーはシェーンベルクと時を共にして抽象表現と無調音楽を科学による音楽と美術の解体から本能的に生きのびるためにリアクションを試みた。
カンディンスキーのコンポジションをイメージしながら、ふと文中にあるシェーンベルクの弦楽合奏作品4と弦楽四重奏第2番作品10を聴いてみることにした。運よくCDは手元にあった。その隣にJohn ZornのMusic for Childrenが並んでいて、どちらもパソコンの悪いスピーカーで聴くことにした。奇遇な音たちは日常のこうした連鎖をあたかも偶然性の一環として奇妙な冷気でかきまわしてくれることもある。
*ヘンリー・ダーガー展

posted: mitsubako: on 07:01AM | comments (0)

2007年05月09日

n°の花粉

RIMG7433.jpg

お元気ですか

……

おや まぁそれは大変ですね

……

新鮮なのがいいですね

……

形も色も様々ですね

……

乾燥しても褪せないですか

……

それではお元気で 雨が降らないうちに集めてください

{みつばちは花粉集めに忙しい わたしも同様に働いてみるから}

posted: mitsubako: on 06:49AM

2007年05月08日

上昇思考のための詩的マニュフェスト

湿地帯の水たまりに 白い雲の造形物

が映っている 反射鏡となる水面の境

は 不安定な大気の縺れに応じて 色

彩の波長を左右する 気流と空気に凝

縮される素粒子たちが 境界すれすれ

の線上で 普通の日と特別な日を決定

してくる 何かの力というだけよりは

 わたしも あなたも これも それ

も はかり知れない星々から微生物ま

でもが およぼす応えに作用して 表

象を生んでいく 0度に透明な薄い膜に

一時的な確率で想起される形状が感知

できるように 現実であれ非現実であ

れ 浮遊する固体となって 行ったり

来たりする白い羽を休めぬようにと

{白い羽音に埋没するn°的方法論から}

posted: mitsubako: on 06:32AM

2007年05月06日

覚めた夢 これから見る夢

ひとは抱いた夢の数だけ覚めていく
ひとつ ふたつ 頭上を流れるごとく通過する雲のように 近づいたと思えば通り過ぎて
やがては どんどん遠くなる 別れたり あきらめたり はかなく消えていく
それは悲しくて 夢なんかもう二度と見ない と心に叫んだはずなのに
また追いかけて 夢を見たくなる いつだって見ていた これから見るはずの夢


あたかも地上を照らすすべての光は、実は海から発せられ、それが空に反射していると見えるのだった。波は、その上をしっかと踏みしめて歩いてゆけそうに、堅固に見えた。逆に、そこを歩く人が沈み、陥ちこんでゆくのは空のほうである。荒れ狂う、底しれぬ銀色の深みへと、きらめく銀、いぶし銀、どこまでも銀が銀のなかで反射しあい、ゆるやかに重みもなく、波だち、かたちを変え、そびえたつ銀の空のなかへと、人は陥ちてゆくだろう。
アイザック・ディネーセン 夢みる人びと

posted: mitsubako: on 13:30PM

2007年05月05日

wordless

憂鬱 無気力 消沈

こんなことがわたしの内側で繰り返される日々が来ると 一体だれが考えただろう
わたしは何のために だれのために どこへ向かっているのだろう

駅のホームに立っているとき 道を歩いているとき 浴槽で疲れを癒すとき トイレに入ったとき 空虚なあいつはかならず襲ってくる 意味もなく流れ落ちる涙に 頬はもはや濡れることに慣れて ドライな皮膚の毛穴を通って心身に浸透する
わたしがわたしであるための逃走 落ちても落ちても壊れ落ちる最後の欠片に念じてみる

なんのためでもない だれのためでもない どこでもないどこかへ

わたしの出発点はいつだって遠いland's endだったはずだ

posted: mitsubako: on 12:27PM