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2007年03月30日

木下杢太郎の蜂

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蜂の死骸を撮しているとき、木下杢太郎のスケッチを思い出した。
わたしも描いてみようと思ったが、動かしている間に頭がぽろりとテーブルに落ちた。
プラスティックの部品のように、抜け落ちたその頭は完全に部分であった。

posted: mitsubako: on 06:57AM

2007年03月28日

ある昆虫の死骸

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昆虫の死骸をもらった。
生きているときのスズメバチは、みつばちが好きなわたしにとっても天敵だと思う。
死骸を撮していると、もはやそんな記憶は消去され、絶好の被写体としてモノに
生まれ変わるからおかしい。

posted: mitsubako: on 09:47AM

2007年03月27日

カール・フォン・リンネ

みつばちの木箱の中に庭師や植物学者の存在がある。誰かを特定したものではないにせよ、目に浮かぶ光景を大切に、削ったテキストのなかで残ったことばと章だった。
綿や植物をイメージしたとき、リンネを抜きには始まらなかった。
わたしは、旅をすると植物園に行くことが多い。ガラスの植物園や展示されている古い書籍を見たりするのがおもしろいからだ。そういう世界観の中にひたっていると、とてつもない夢を見ている気がするからなのだ。
リンネはスウェーデンに生まれ、植物分類学で世に知られている。大学では医学を学び、やがてウプサラ大学の植物園長になる。ここは、ぜひ訪ねてみたい植物園のひとつだ。
「自然の体系」「植物の属」「植物の種」と世界で初めて生物を分類体系した出版物として知られている。
昨夜、夕刊をめくっていて、はっとした。上野の国立科学博物館で開催されている「特別展 花」でこの初版本が2日間だけ展示公開されるそうだ。リンネ生誕300年を記念して喜ばしい企画だと思う。必ず行こうと思う。

posted: mitsubako: on 10:03AM

2007年03月26日

月映は今もここに

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「若き日の美術家たち」に偶然立ち寄った。
月映の田中恭吉の木版画は魂がいつまでもそこに漂っていて好きだ。
予期もせず、今一番見たかったものに出会えると、自分が何を求めているのかおのずと見えてくることがある。
帰ってから本棚の作品集をくり返し取りだしては見ている。

posted: mitsubako: on 07:08AM | comments (3)

2007年03月24日

岡崎へ

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春分の日の朝。アスピリンを一粒飲んで、松浦寿輝の詩集をかかえ新横浜駅からのぞみに飛び乗った。車掌が乗車券の見回りに来るころには、頭も少し軽くなって詩集が読める心境にまで落ちついた。名古屋までの1時間ちょっと、文字に集中したり、ぼーっと走る工業地帯を眺めたり、いい時間が流れ出した。
快晴の名古屋は寒かった。きちんと調べもせずに在来線に乗りかえて岡崎へたどり着いた頃には、もう11時をまわっていた。そこからまだ30分近く丘陵地を登ったところにマインドスケープミュージアムがあった。
「森」としての絵画——絵のなかで考える、わたしはこれを見に来た。
出品作品の岡崎乾二郎の作品を、ゆっくりといつものようにテキストと照らしあわせながら対話した。その場に包まれているとグレーに塗りつぶされて、すっかり扉に鍵をかけてしまっていた心に色彩が語りかけてくる。作為的に無心の喜びを感じる。ここに立っていることが大事な出来ごとなのだ。

山の向こうの中腹のちっぽけな村はすでに見えなくなり、ふたたび春が巡ってきた。葡萄の木はあたかも塀の笠石の下を匍う病める大蛇のように見える。生あたたかい空気のなかを褐色の光が動きまわっていた。似たりよったりの毎日が作りだす空白は伐り残した若木まで切り倒すだろう。日々の暮らしのなかで樹木の茂みは岩のように突き出ている。

自分の暮らした村がこんなに小さく思われたことはない。太陽が姿をみせた。背の高いポプラの林は風に吹き動かされる砂浜のような格好をしている。切れ目のないその連続を見ているだけで眼がくらんでくる。変り映えしない日々の連続に酔うことができたなら象や蛇をしとめた気にもなれる。蝶が舞うようにそんな風に彼はものを識ったのである。
岡崎乾二郎

4月にふたたび名古屋を訪れる。ガレリア フィナルテで「岡崎乾二郎/松浦寿夫」展が開催されるから。

posted: mitsubako: on 16:37PM | comments (0)

2007年03月18日

軌道修正

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自分の行く末のことばかり考えるようになった。そうしてみては3日に一度、無力な自分に涙している。
本能とは、もうほとんど死語に近いことばなのかもしれない。わたしがこうして着地点に何かを求めてやまない最終ラウンドの呻き声は、あえて言うならば本能のような気がしてならない。身体が、あるいは生理的に精力の終章に飾る花を無性に欲しているのではないかと思うからだ。
この欲求にわたしは忠実でありたいと思うし、ありのままでありたいと思う。
週末、消耗しきった体のまま、何年も会っていない友人宅へ白い車に揺られて向かった。

テーブルに、今季で契約を終えた仕事先でもらった送別の花が生けてあった。
生きざまがここかしこに積み重ねられて居心地のいいアトリエは、今も変わらない秘密基地だった。
ふと、この花束をもらう自分の姿が、ガラス戸の向こうに青く浮かびあがってから、大気不安定な雲の層の中に消えていった。

posted: mitsubako: on 13:48PM

2007年03月07日

読書欄もうひとつ

続けて読書欄から。
嬉しかったのは中条省平が「蜜から灰へ」の書評を書いていたことだ。
この本を読み進めるには時間がかかる。でも、わたしにとって神話論理I「生のものと火を通したもの」と、「蜜から灰へ」は必須必読のなかでも最重要マークがついている2冊だ。なぜなら、わたしが個人的な文章や詩を書くとき、視覚的に決定づけられる場や情況と同時にアレゴリーとして連鎖するものを常に思い巡らせているからだ。
この本書の中にも金原瑞人が言ったと同様に、人間が食することは単純に生と死に結びついていることをイメージできる。
わたしたちの目の前に溢れている食は、もはや流行やビジネスに覆い隠されている。やさしく、甘く、ファンシーなベールで包みこまれている。しかし、そうしたベールを取り去って考えてみると、そこには避けては通れない「生と死」を分かち合う魂の交換の場が再び立ちあらわれてくるとわたしは思う。

posted: mitsubako: on 05:35AM

2007年03月05日

晩餐

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3月4日付の朝日の朝刊を珍しくめくった。日曜の新聞は、読書欄があるから。
金原瑞人が「食は生と死に結びつく」と題して2冊の本のレビューを書いていた。『食べる西洋美術史』宮下規久朗 光文社がそのうちの1冊だった。キリストの最後の晩餐を中心に西洋美術に現れる食べ物と食事をテーマに絵をみていくという。

食はコミュニケーションの場を作るとともに、生と、さらに死としっかり結びついているのだ。しかしそれが近代になるとこの傾向が弱くなり、みんながとりあえず食べられるようになってしまうと、食の比重が軽くなるらしい。
金原瑞人

先週末、仕事先の仲間の誕生日だったり、「お疲れさま会」だったり、試食もあって、全部をひっくるめたような遅い午後のお茶を会社のダイニングテーブルでした。7、8人が狭いテーブルを囲んで、「おいしい、おいしい」の連発。ふわっと気の抜けたひと時を過ごした。
この時、わたしはなぜか「晩餐」ということばを思い浮かべていた。そして、金原瑞人の書く「食」の近代の傾向がすぐに理解できた。食を囲むテーブルに生と死の重みはない。隠れた根底に直接触れることはない現代人のまどろみのようなものを感じるのだった。

posted: mitsubako: on 06:28AM

2007年03月01日

●SUOMI

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フィンランドの母国語で自国をあらわすことばがSUOMI。沼とか沢の湿地地方を総称する呼び名だろうか。
切手に印刷されたSUOMIを昔からとても好きだった。
ロシアから移住をしてテキスタイルやファッション界で注目されているデザイナーにIVANAhelsinkiというブランドがある。
キャンプをテーゼに鳥だのマトリョーシカなどのプリント柄とかすれたスタンプを目にしている人は多いはずだ。ある日、白いギャラリーに立ち寄ったら、作品よりもIVANAhelsinkiのコレクションがインテリアとして置かれているのに目をとられて、直接問い合わせをしてみた。

気さくなメッセージと一緒にSUOMIからパッケージが届いた。
こんなカード集を作ってみたいな。

posted: mitsubako: on 06:00AM