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2007年02月25日
木箱であること

先週末に書いてみて、イメージがなかなか決められなかった。
昨日、よく行く美術館のライブラリーで、初めて猪熊弦一郎の「アリゾナとカチナドール」を書庫から出してもらって開いた。わたしは大のカチナドール好きなのに、所有はしていない。作家の岡崎乾二郎さんが飾っていたカチナドールは現地で大変な思いをして手にしたと聞いた覚えがあるので、わたしも現地に足を踏み入れるまでは所有しないことにその時決めた。
「アリゾナとカチナドール」を読んでいて、書きとめたことばがあった。このことばが、「木箱であること」にぱっと結びついた。
ふと地平線に近い処に、ぽこりと持ち上がった、土で作った小さな半球体の何かを見た。
これがインディアンの住家である事を知った。
すると先日見た馬の人は、この大砂漠の中の住居の中に帰って行ったに違いない。そこには家族が待って居る。この小さな土塊の様な一つが、彼等の住家であるのか。虫の様に生き、虫の様に生活を続ける砂漠の中にも、私達の知らない、幼い時からのささやかな楽しみと救いがあるのかも知れない。どうしてこんな隣家に行くにも数哩もある様な大地の中に、孤独で住もうとするのか。どうしても解らない。
「アリゾナとカチナドール」猪熊弦一郎
みつばちの木箱のこと自体を書いたことはあまりない。みつばちが大好きなのと同じように、みつばちを飼う木箱が好きだから活動名にした。
箱というのは便利なもので、そのフレームがあるだけで骨子がはっきりするような気がする。とても単純な構成なのに必要なものだけが必然的に詰め込まれている感じを具現化できているからだ。
わたしの場合、箱は木箱である必要がある。それは、淡いペパーミント色でペイントされていて、雨風に打たれて、剥げ落ちたり、腐敗しなければならない。壊れるものでなければならない。朽ちていく経過が環境との順応であってほしい。
わたしにとって木箱は一種のアレゴリーだ。黄色い花粉がそうであるように。あるいは森の蜜がそうであるように。
木箱は「いえ」の原形であり「蜜」は営みでなければならない。
木箱は「引き出し」でもあるし「蜂」は軌跡でもある。
木箱の入口は小さくて、入ると空洞がある。
36度に保たれた箱内は蜜蝋の膜に覆われている。
木箱はソローの森の家、ル・コルビュジエの小さな家、ダイソンのツリーハウス、猪谷六合雄の小屋、アイルランドの蜂の巣型僧坊、名もないある村で見た数々のヒュッテなどを凝縮したわたしの心のことばだ。
スイスのルンゲルン地方で小さな山を散歩した。貧しい村落の途中に簡素なチーズ小屋があって、その先に誰もいない教会があった。戸を押して入ると、祈りをするだけの空間があった。数知れないこうした体験はそのどれもがみつばちの木箱に表象されている。
ところで、淡いペパーミント色のペイントは、幼少に使っていた三段引き出しの木製ベビーダンスの色から採った。
posted: mitsubako at <13:19PM>