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2006年07月31日
夕涼みの少女 あれから
去年の今日という日はちょっぴりセンチメンタルな気分だった。あれから1年、窓辺の少女は今日も夕涼みをしているんだろうか。
夕暮れ時、にじんだ水彩絵具の雲を見つめていたり、ねぐらへ帰って行くからすの姿が消えてしまうまで見送っているよりも、明日の現実を考えるちょっと大人になってやしないだろうか。いや、それもそうだけど、彼女は大好きな詩集を手に、窓辺で朗読を男の子に聞かせていたよ。月が出ると蜜蝋に火をともして大きな本を広げてみたり、時おり「ふー」と深い息をしてみて「人生は詩ね」なんて優しくつぶやいたりしている…。
うすら灯りに羽根ペンで彼女はこんなことばを書いてみます。
賞賛にあたいするような美しいことばや、たとえ芸術にひきあげることはできなくとも、ぐっとわたしの文脈に引き寄せてそれらを書きとめることだけはしていたい。
posted: mitsubako: on 07:38AM
2006年07月28日
馬

馬は走るために生まれて来たんだと思っていた。
晴の日も、風の日も、深い霧の日も、雨の日も、沸きたつような雲の日も、草原でじっと草を食べ、ゆっくり歩き、立って休み、時には寝転ぶ。
馬はそうして30年ぐらいの命を送る。
一緒にならぶのは母馬と子馬。
仲間と離れすぎることもなく、近づきすぎもしない。
お互いが大好きというわけでもなく、大嫌いで孤立もしない。
近くでもなく遠くでもなく、ひとりでもなくみんなでもない、見ていないようでいて、見ている、つながっているようだけど、密接すぎない。
だのにとってもそこが平和に見えてくる。
*深い霧につつまれた草原に見え隠れする馬の姿を追うのは感動的でした。馬の持つ雄姿と霧による遠近感、やさしい草のたちこめる地平はとてもこの世のものとは思えぬ幻想の世界です。わたしはそこにひとつの平和の姿を見たような気がします。
遠野の徳吉家「ありがとう!」
posted: mitsubako: on 07:54AM | comments (2)
2006年07月27日
小学校のまでの道

朝ご飯を食べて、7時20分。あかねちゃんの通う附馬牛(つきもうし)小学校に歩いて行くことにした。それは昨日、車の中ですっかり仲良しになったあかねちゃんが「ねぇ、ねぇ、いつ帰るの?」って聞かれて、「明日」とこたえた。
「何時?」「3時の電車に乗って帰る」「じゃ、会えないや」。
わたしもこれだけだと後ろ髪をひかれる思いがしたので「じゃあ学校まで一緒に歩いて行こうかな」とさそってみた。そこで約束が成立。その翌朝、両脇に木がいっぱい茂る舗装道を下ってあかねちゃんとわたしは歩き出した。
「はい」大きな山椒の葉を一枚くれた。山の山椒のかおりはとてもしっかりしている。においをかぐと血のめぐりがよくなるのかわからないけれどすっきりしてくる。何度も鼻に葉をあてるわたしを見てこの少女はきゃっ、きゃっと笑う。
あかねちゃんはちょっとだけ遠回りして林の中にある鳥居を案内してくれた。いつも行く道で最大限のツアーだ。
すぐそばを流れる川の音を聞きながら、右や左へ歩く側を変えて単調なコースを行く。
「はちがいるよ」少女はわたしのはち好きをちゃんと知っている。里の肥えた土に立派に咲く芙蓉の中で一匹のハナバチの一種がせっせと花粉を集めている。
「これはね、ハナバチだね。毛がふさふさしてるでしょ。大きいけど優しいよ」「じゃあ、刺さないんだ」「いやがることをしなければね」。
それからしばらく行って、見たこともないようなグミの古木の前で近道に入った。あかねちゃんがグミの実を採って食べたのでまねした。赤くてすっぱくておいしい。わたしたちは笑顔。その真下の水田に誰にも食べられずに落ちて散らばる赤い実。大きな黒いおたまじゃくしの影がその上をすっと通る。
そして右に進んで行くと少し小高い民家の庭先にわたしが好きな雲の劇場がみつかった。「待って、写真撮ってくる」。
「見せてぇ」撮った写真をながめて「へー、上手に撮れたね」と褒めてくれた。
さて、緑の田圃が広がるところまで来ると「お父さんやお母さんはいつもここまでだけど」と言う。「ふーん、学校まで行ってもいい?」「いいよ。いいけど、友だちも一緒だよ。往復4km、大丈夫?」。
ツアーをしたためちょっぴり遅刻気味、待たせた友だちにごめんね。早足でそのあと川のそばを歩いて学校まで行った。校門の前であっさり「じゃあね」少女はそれからもうふり返りもせずまっすぐ学校の校舎へと向かって行った。
忘れたことがあった、途中で犬のいる家の犬に「ころちゃん」と声をかけていた。ほんとにころちゃんかどうかは知らないんだそうだ。白い孔雀を飼ってる家があった。この孔雀時々羽を大きく開くんだって。なんて楽しい片道2kmの通学路だろう。
ところで、ひとりの帰り道、郵便局とか、田圃とか、あちこちもっと寄り道をしてから、あまりに日射しが強かったので雨傘をさしさし、わたしは山の家に帰っていった。
posted: mitsubako: on 07:51AM | comments (2)
2006年07月26日
遠野の日本みつばちツアー

遠野の松崎、駒木(こまぎ)集落で馬の世話とか、農業とか、みつばちの巣を仕掛けている岩間くんの家に敏江さんが一番に連れて行ってくれた。
岩間くんの納屋の屋根の上に巣箱あり。
大きなブルーベリーの実がなる前の屋根の上に2つの巣箱あり。
そこから8歩先に藁のかかった西洋みつばちの巣箱あり。
「まだ、あるよ。ちょっと上の方へ」と車で1分ぐらい上がったところの茂みに2つ巣箱あり。
「電柱の中に入ってるのがいた」とそこへも行ってみた。もはやそこにはみつばちはいなかった。電柱の空洞の中にボルトで開けられた穴から、分封したみつばちが先日まで出入りしていたそうだ。
「野性の巣もあるよ」そこでまた車で今度は下ってちょっと村の方へ行った。大きな大きな大木の隙間にちょろちょろ出入りするみつばち。この木のすぐ近くにも巣箱が2つ仕掛けてあった。
「橋の下も見てこよう」今度は河原。橋の下に3つかな、巣箱が置いてあった。河原の涼しい風、やさしい草花が茂るところ、つばめが飛びかっている。橋のたもとから切り取るこの風景は生息するものの楽園。
それから車に乗って空き家の縁の下に棲んでいるみつばちの巣も教えてくれた。
あんまり当たり前のようにみつばちと暮らしていて、当たり前のようにそこここにみつばちがいるので嬉しくなった。特別なことじゃないんだよ、みつばちがいるって。
posted: mitsubako: on 07:49AM
2006年07月25日
えへへ。

「ゆきはべろんてなめるんだよ」
かくべつ、人恋しいしぐさをするゆき。だが、逃走すると野性心が旺盛なのか、なかなか帰ってこないらしい。瞬間だが、この犬には不思議な心があるとわたしは感じた。
posted: mitsubako: on 07:47AM
2006年07月24日
森の巣箱

岩間くんのみつばちもだし、あかねちゃんとも遊びたかったので早朝の列車で遠野へ向かった。
午後、あかねちゃんとわたしは傘を手にすぐ目の前の森に歩いていった。
薄暗い森の木陰に切り株の幹が斜めに仕掛けてある。それが岩間くん手作りの巣箱だ。
雨、露でしっとりした木々や葉のなかに溶け込むような自然なフォルム。このシンプルな造形物から羽音がひびく。これは森の楽器だよ。
門番のみつばちが巣の入口で蠢動している。
「こうすれば近くまで行けるんじゃない」熊よけの電線を傘の柄ですっと上にあげてくれたあかねちゃん、10才の少女は知恵に溢れている。
蠢動の原因はすぐにわかった。1匹のアシナガバチが偵察に来ていて、ちょっとでも入口に近づこうものならみつばちたちは体全体をぶる、ぶると一定に振るわせて威嚇をする。緊迫と警戒の最中だった。
わたしにはなにもしてやれることはない。それが自然の法則というものだから。でもどこかに、このみつばちたちの強さのようなものが伝わってきて、きっと彼女らは守りぬくだろうと祈るのみだった。
それからもう一度傘の柄で電線を持ち上げてくぐりぬけ、森のきのこを見ながらあかねちゃんの家に帰った。
posted: mitsubako: on 07:45AM | comments (3)
2006年07月21日
夕刻

そういえば、ある日の夕刻、窓から雲ばかり眺めているときがあった。
金魚の夕焼け。
posted: mitsubako: on 07:53AM
2006年07月20日
火の魚
…永い作家生活の中でも、ひよんな事から、妙にその作品が成功したとも成功しないとも限らないのに、頭にのこって自分だけがそれを大切にあつかふ作品が二三篇はあるものだ、…
『蜜のあはれ』を読んでからすぐに読み始めたのが『火の魚』。『蜜のあはれ』は最後まで読み終えてみると、読書中に感じたこととは別の後味があった。先日、金魚を昇華するとは書いてはみたものの、終わりの印象はまったくそれとは異なって感じた。
後記 「炎の金魚」を読んだからだ。
靄のなかに在りつづける自己を洞察するもうひとりがこれを描かせている、混沌とした内面の暴露であるように思う。
…それでも五体のどこかに不死身のところがあって、幾ら年月が経っても死なない部分が色を変えずにつやつやと生きていて、そこを敲きさえすれば、扉はひとりで開き、中の物が見え聴こえる音は聴こえ、たすけを呼ばなくともたすけてくれる…
この活字を追っているうちにわたしの胸の中が熱くなった。
なんとなく、この世界にもう少し触れてみたくなって、それで続けて『火の魚』を手にした。今、「運命論者」というところで読み進めるのがとまっている。
軽井沢で台風がやって来て、木々が倒れ、川は音をたてて流れるなか、牛乳を運ぶ少年、新聞を濡れずに届けた少年のことが淡々と描写されている。
やがて、台風が去り、夜間に郵便配達が雑誌や手紙の束を届けに来たときのこと。
…汽車が不通だったものですから遅くなりましたと言つて去った後、一層のしづかさを感じた。古い黒い鞄をかかへた配達の人が、今夜は実に遠くから旅して来たような気がした。…
この情景は、いとも自然にわたしの目の後ろの方でイメージと化して、深いため息となる。
…詩を失った詩人は台風のすぎた山野の景色と同じものを、心のすがたに現してゐるものだ。呼んでも帰って来ない詩は、帰って来ないのではなくて、既う私の中に、相果ててゐるのである。…
国木田独歩の小説「運命論者」を台風の去った山野を彷徨いながら記憶の中から呼び起こそうとする犀星。このことばが自分の思いのままであるゆえに、ある作品の一部に題名として残した静かな文章がなんとはなしに好きだと思える。そして大それたことを言うようだけど、「文章うまい…」と呟いてしまった章でもあった。
posted: mitsubako: on 07:35AM
2006年07月19日
山のみつばち

小さな日本みつばちに繰りかえされる命を見ると心がぽっとしてきて元気になる。
ほら、見られているよ。
*2006年7月17日、18日、夏を迎える前の遠野へ行きました。草や木々のにおいがかおるなんとも優しい時を過ごしました。
旅のおはなしは少ししてから書いてみようと思います。
posted: mitsubako: on 07:24AM | comments (4)
2006年07月14日
小学校のひまわり

近くのお買い物道、学校のひまわりが懐かしさをさそう。
とても蒸し暑いので、あと少ししたらちょっとだけ深呼吸にでかけようか…。
posted: mitsubako: on 07:58AM
2006年07月13日
夏がくる
台風の発生をニュースで聞くようになって、激しい雨が降る日があると「ああ、夏がくる」と心の中で繰り返しつぶやいている。
どうして大人は夏休みにしないんだろう……。
青い空や真っ白な雲、トンボやセミ、深い緑の木々や色鮮やかな花…どれも大好きな光景だのに暑さだけはどうしても苦手だ。
それはもう小学生のころから始まっていた。炎天下の校庭で、朝礼というものがあった。わたしはすぐに頭が割れるように痛くなって気もち悪くなっていたものだ。今、思えば炎天下も苦手な上に、多分朝礼というものも苦手だったのではないかと…。
ぶつくさ言ってもやってくるものはやってくる。
4、5年も前になるけれど冷たい夏のデンマークへ旅をしたことがある。こんな夏なら快適、わたしは元気に過ごせるのにと思っていた。それでもデンマークの友だちは日が出ると「暑い」と袖なしになって真夏のかっこうをする。こんなの日本の春の陽気なんだけど。太陽のすくない北の国の夏は格別、人々がそのときを待ちわびて謳歌する。
水着なんていらない、裸になって体中に光りを浴びる。待っていた光へ溢れるばかりの喜びの表現。
ボーンホルムという島へ渡って数日過ごした。どこへ行ってもざくざくと切ったレモンがたっぷり入ったピッチャーから水がコップへとそそがれる。
そうだ、暑い夏は冷たいレモン水をがぶがぶ飲もう!
このちっちゃな宣言はわたしの覚悟のようなものかもしれない。
どうして大人は夏休みにしないんだろう……。
posted: mitsubako: on 07:42AM | comments (1)
2006年07月12日
青いさかな
深海の青色にきらきらと光がさして姿を現す人魚。
さかなは水中で自在に泳ぎまわるっているが水面を隔てたあちら側の世界ではほとんど生きていくことは難しい。その隔たりや体の形から時として不自由な哀れみをさそう生き物でもある。
目、口、鰓、鱗、そしてにおい、感触…そのどれもが冷たく無表情に感じる。
わたしが出会ったさかなの描写のなかでそれとは異なる溢れる力を感じる一節がある。
私は魚の生けるがままに生き、魚の喜べるがままに喜び、魚の悲しめるがままに悲しみ、朝より夕に、夕より夜に、私の心を青く描くことによって、はつきりと命を把握してゐる。
『朝、青く描く』生命 前田夕暮
posted: mitsubako: on 07:41AM
2006年07月11日
蜜のあはれ
ぱくきょんみさんの『いつも鳥が飛んでいる』、わたしの読書術にもう一回読んでみようと思った文人が室生犀星だったとある。彼女はその続きに「読書とは、ある作家を通して違う作家を知る経験だとつくづく思う。」と書いている。
巡り巡って、わたしも犀星の『蜜のあはれ』を読み始めたばかりだ。
犀星の描く金魚…もしかしてあの死んでいったあわじゃないかと思うほど不思議な懐かしさを抱いている。そうして、この本を読み終えたら、わたしは次にこれとこれのページをめくってみたいとすでに頭の中で線をつなげている。
きょんみさんは犀星から富岡多恵子の『随筆 女ひと』へとつないでいて彼女の筆力に感動よりも「やっつけられた」という。わたしは、自分の中にあてはめられることばが見つからなくてうろうろしていたら、そうだ、わたしは犀星の「あたいは殺されない」にちょっとやっつけられた気分がしているのかもしれないと思った。
だって、いくらみつばちが大好きでも、こんな風にあるいっぴきとの関係を昇華した描写にもっていけないものって具合にだ。ただただ、あたいのようにだだをこねてみたくなる気分だったりする。
そうしてわたしは「さかな」というモチーフに人が抱くイメージとか感触とかが気になりだしている。
posted: mitsubako: on 07:40AM | comments (2)
2006年07月10日
その樹

崖に登って撮ってみた。
ほらね、プルーンだよ。
手が届かないぐらいまで伸びている。
posted: mitsubako: on 07:38AM
2006年07月07日
プルーンの樹
何年も前にたったの90cmぐらいのプルーンの苗木を茨城で買った。庭に植えて、なんどか移植されたけれど、もうかれこれ5、6年はたっただろうか、あの頃からは想像もつかないぐらいに立派な木になってきている。毎年、白いかわいい花を春になるとつけてはいたものの、実らしきものは、まだならなかった。
今年、初めて実がついた。あたりまえのようなことだけど、その木その木に実がなるようになる時期がある。毎日その成長を見てきたわけではないけど、こうして一人前に実をつけることができるようになった木を前にすると「おめでとう」といってあげたくなる。
わたしはなんにもしていないのにちょっと誇らしいなと思う。
posted: mitsubako: on 07:54AM | comments (2)
2006年07月06日
なんでも億劫
アイロンかけはそんなに嫌な仕事ではなかったはずだのに、近ごろはとても億劫になる。とくに蒸し暑い梅雨時のアイロンはかける前からむっとする思いがして、後でにしようと週末の家の仕事で最後まで残っている。
できるだけアイロンをかけなくてすむものを着ているけれど、時々アイロンをかけたブラウスを着てみたいことがある。なんだろう、気持ちを正すというのか、だらけた日々をぴしっとしたいからなのか。
考えてみると、この頃億劫になることが随分増えた。まぁいいや、今じゃなくても…と置き去りにしていることがたくさんあって、ただごろんと横になって本を読んだり好きなものを眺めていたくなる。プチ旅に出たいと思いながらもなんとなくそれも、また来週と延ばし延ばしにしている。ぱっと軽やかにあちこち出かけて、ぱきぱき物事をこなせる時もあるけれど、体が億劫で気乗りがなんとなくしないこともあるさと甘やかしてみたりしている。
そうしてもうすぐ、わたしの苦手な暑い夏がやってくる。
posted: mitsubako: on 07:52AM
2006年07月05日
室生犀星
萩原朔太郎で今気になる3冊は狭い部屋の中の場所にそれぞれ置いてある。『月に吠える』はパソコンが置いてある机のすぐそばに。『青猫』は大好きなテーブルの上に。『のすたるぢあ』は枕元の近くの本の山に。きちんと置いているわけではないけれど、たとえ部屋の中であったとしても、それを見たいと思う場所がどうやらあるらしい。その理由はあんまりよくわからない。そしてある時、突然片づけがはじまる。朔太郎にこうして親しんでいて、そのすぐそばに偶然あったいろはの小冊子のことを思い出した。室生犀星の特集号を見ていたら、栃折久美子さんの金魚の魚拓の装幀本が目にとまってこれから『蜜のあはれ』を読んでみようかなと思っている。室生犀星と題しておきながら、実は金魚のことが心に浮かぶ。今のわたしなら、サイアノ色に金魚を撮ってみたい。
数年前、黒い出目金を一匹飼ったことがある。真っ黒ではないけれど、ややチョコレートがかった稚魚を買っていつでも仕事をしているパソコンから見えるところに置いていた。「ちょこ」という名前をつけた。
黒い出目金は動作がにぶくて、のんき、穏やかだと人から聞いて飼ってみたくなったのだ。その通り、突起している目のせいか、エサもさっと上手にとれる方ではないしゆらゆらおっぽを動かしてのんびり遊泳するさまをガラスの向こう側に見ていると、自由な空間とは決していえないのにあたかも自由そうに見えたりする。
「ちょこ」は不慣れな飼い方ですぐに死んでしまった。死んでしまった金魚の顔ははっきりと覚えている。それでも懲りなくて、もう一度だけ飼ってみたいと思った。今度は、できるだけ元気そうな稚魚を選んだ。黒出目金にしてはすばしっこく、前の「ちょこ」より今度の「ちょこ」の方が敏感だと思った。こんなちびな頭の中にも頭脳や性格あるんだと思った。
金魚は群れて生きるものだから、仲間がいた方が長生きするとまた人から話を聞いて、それじゃあ赤いのを一匹と口紅をつけて目をぱちぱちするような顔をしたのを選んでやった。それは「あわ」という名にした。泡のようにはかない金魚の命からそうつけた。
「ちょこ」と「あわ」は愛称がよかった。テリトリー争いもせず「あわ」は「ちょこ」の後ろについてよく泳いでいた。黒と赤のコントラストの2匹は2年半ぐらい生きた。「ちょこ」が先に死んで、そのあとすぐ「あわ」も死んていった。
今はからっぽのガラスボールがただ置いてある。
posted: mitsubako: on 07:51AM
2006年07月04日
熊野の森の一家の話 その2
野尻さんのことばどおり、当初1箱だった巣箱は長年のうちに30箱にものぼるようになった。よっぽど野尻さんがつくる巣箱は日本みつばちにとって居心地がいいのだろうなぁ。ある日、子どもたちを連れて、採蜜に山へ入る。採蜜時になると、野尻さんは上半身裸になった。トントントンと巣箱を外側からたたき上げて中の蜂を振動で上へと誘導する。重たい巣箱をひっくり返し上に集まった蜂たちをつぶさないように外へと追い出す。野尻さんが肌を出しているのは蜂をつぶして怒らせないよう集中するためなのだという。ワバチを大事に思うということだけではなく、そこに人間と蜂の馴れ合いではない緊迫した関係がある。それはまるで儀式なんだと感じる。
刺されずに巣を取り出して、子どもたちに取れたての蜜の味見をさせる。もうそれだけでわたしは尊敬の念がわいてきて、画面の先の知らない方に熱い気持ちを送ってしまう。一匹素手にのってくる冬の蜜蜂ぐらいなら平気だけれど、群がる蜂の中に手を入れられるなんて。そんなのは本の中で見たbeekeeperの肖像写真ぐらいしかなかったから驚きはとまらない。
一升瓶にして何本も採れる薬のような蜜。野尻さんはこの蜜が相場2万円ぐらいで売れることを知っている。けれども、彼はそれを日ごろお世話になった方々へお裾分けをして、売ろうとはしない。湯の峰で、わたしはこの一升瓶に入った山ばちの蜜を2年前に実は目にしている。欲しいなとは思ったものの、高価だからということだけではなしに、それを買う気になれなかった。いや、蜜蜂や採蜜のことを考えれば、この値段は高いと一概に言えない。貨幣という価値では値がつけにくい、高価なような高価じゃないようなものだから。わたしがそれを買うことで、この土地の何かを壊しはしないだろうかという思いがよぎったから手が出せなかった。
なかばハニーハンター、なかば養蜂のようなこの森に伝わる日本蜜蜂と人間の関係は、森がなければ存続できないし、蜜蜂がいることで森が豊かになってもいく。専門とまではいかない生活の中のこうした遊びごころのある技にいったいどれだけわたしたちは教えられることがあり支えられているんだろう。
posted: mitsubako: on 07:50AM
2006年07月03日
熊野の森の一家の話 その1
この間、久しぶりにテレビの番組をわくわくしながら待ちわびて見た。ETV特集「大森林の小さな家〜熊野・野尻さん一家の十年」の再放送だった。
新聞に蜂蜜採取のことが載っていたので、たとえそれが一部分であったとしても、とても見ておきたいと思ったのだ。
熊野は伝統養蜂が残されている地域、2年前の夏、この地方を旅したときに、蜂箱を横目で見かけながらも車で素通り、降り立って見ることはしなかった。いつか必ずまたあの鬱蒼とした森へ行って探検してみたいことがいっぱいある。白浜から湯の峰周辺にターゲットをしぼって。
オープニングで一家が暮らす畝畑の風景が出てきた。そうそう、こんな山間を走ったんだったっけ、とすぐに親しみがわいてくる。地図で調べてみると、川湯からはそれほど遠くはなさそうなので、この付近は本当に熊野を巡ったなかでもディープな地域であることはイメージできる。一家は父の代に林業景気で森林管理を預かる仕事を請け負い、父の死を機に息子の野尻皇紀さんが仕事を受け継ぐことになる。それから10年にわたる家族の日々のドキュメントだ。
野尻さんの姿勢は一環して自分が育った山の恵みに感謝をし、父親から伝えられたこと、そして自分の勘を信じて、100年、200年先の山の未来を考えた行動にある。このバランス感覚は生まれ持ったこの人の勘以外に頼れるものはない、わたしはそう感じる。
ところで日本みつばちの採蜜シーンにみとれた。丸太の幹をくりぬいた洞のような形の蜂の巣箱(ゴーラなどと呼ばれる道具)をしかける野尻さんには自信がみなぎっていて、「しかければ必ず入る」と断言できる。それは決して、自分の腕がいいということだけではなくて自然に調和した自分の感性をただ素直に認めているようにわたしには思える。
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