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2006年06月30日

空いろのいちご

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萩原朔太郎の詩に『空いろの花』がある

まだ春あさき草のあはひに
蛇いちごの実赤く
かくばかり咲き光る哀しさ

*初めて、朔太郎の詩を紙に書き写してみた。
この一節をこのイメージに書き添えてみたくなった。


posted: mitsubako: on 07:49AM

2006年06月29日

青い草 朝露の先

運命ということばは宗教的な力ではない決定的なものだ、ということを昔聞いた記憶がある。だから、そこには救いとはちがう絶対的な力が働くと…。それ以来、運命ということばをもし使うとすれば、何か大きな恵に生かされる思いとは区別をして意識的に書くようにしてきたと思う。手で書いたとすれば、「運命」という字だけは妙に力が入ってしまうような、それはわたしの内側でだけちょっと熱くもなるしデリカシーに触れることだったりする。
運命的な出会いといえば、ポジティブに決定されたことと受けとるだろうし、ネガティブに絶体絶命的な状況を説くにもこの運命ということばは使われたりする。

わたしはわたしが生まれ育った文化圏に、「生きる」ことを自然に対峙させる哲学がその土壌にあると思っている。最近、わたしはぼんやりしているとこの運命ということばが浮かび上がってくる。
ドラマティックに脚色された筋書きでもなく、ただ日常の青い風景の中ですっと一筋の光が心臓の中に入りこんできた。決して大げさな決断とか風に立ち向かうような波乱やゆらぎはなくて、ただ流れるままに自然にひかれていく。命をその流れにたくしていくような、優しい曖昧模糊とした空気の中へ無我に漂流することに運命ということばは、一体つかえないのだろうか。

朝靄の先、かすかに見える路
青草にひかる露に魅せられてわたしはどこでもないどこかへひかれていく

posted: mitsubako: on 07:44AM

2006年06月28日

どんな気分?

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庭先に蜘蛛の巣がふえた。
南天の木のすきま、何層もの柔らかい糸がからまって
散った花びらをうけとめる。

蜘蛛はどんな気分でここにいるんだろう。

posted: mitsubako: on 07:39AM

2006年06月27日

乾いたにおい

にわかにほっとするどこか懐かしいにおい

においのトーンはとんがりもせず 消えてなくなるほどでもない
甘くもなく 爽やかすぎもしない
人から人へといくども読まれた古本のように
少し黴びた紙のにおいがする

乾いた赤い大地 アリゾナの砂
カチーナがすっと目の前をかすめて遠くへかけていった…

posted: mitsubako: on 07:36AM

2006年06月26日

薄暮

萩原朔太郎の『のすたるぢや』をめくっていてふっと目に止まったのが薄暮だった。
青く暮れて行く川縁の前方にテクスチャのような青草が茂っている。
流れゆく川と止まった時間。
止まった時間とはイメージの印象ではなくて、撮影者が息をのんで止まっている撮影時間を思うからだ。この青い空気の中には人影はないけれど藪にひそむ人の気配が見えてくる。『月に吠える』の序に詩の表現について朔太郎はこう書いている。

感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

高校生のころ、現代国語の授業で朔太郎の詩を読んだ。先生が朔太郎が好きだったこともあって、ぎゅうぎゅうと押し込められるようにして聞かされたことは覚えているけれど、肝心の朔太郎については真っ白なままだった。
生まれて初めてニューヨークへ夏の旅をして、おしゃれで大人びた同世代のアメリカン・ガールズに憧れ、女学生らしい女学生を脱出しなければなんて企んでいた頃だったから。当時のわたしにはこうした詩人の描写する憂鬱とか陰影をこころで探れるほどの繊細さは育っていなかった。朔太郎は暗い…と印象づけてしまって以来なかなか進んで読む気持ちにはなれなかった。

それから何十年もたった今、サイアノの表現者としてこれほど透明感のある人がいるだろうかと共感できる。

薄暮色、黒板に大きく書かれた朔太郎という名前、先生はどうしているだろうかと郷愁の授業風景を懐かしむ自分がここにいる。

posted: mitsubako: on 07:35AM

2006年06月23日

青の蛾

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落ちたところは水瓶のなか
小さな風が羽をそっとまわしてる

水に散らばる粉々に光があたってはねかえる

posted: mitsubako: on 07:04AM

2006年06月22日

日本民藝館

駒場の日本民藝館に少し前になるけれど久しぶりに行った。
このことをすぐに書けなかったのは、あまり書きたいと思う気持ちにただならなかったからだ。旧柳宗悦邸が再建されてその公開があったので、ぜひ見ておきたいと思って出かけた。
わたしとこの駒場の民藝館はもうずいぶんと長い出会いで、何度となく訪れるのが好きな場所のひとつだ。益子参考館もあわせて、日頃、がらんとした、どこか遠く忘れられてしまったような静けさと落ちついた暗さの館が魅力だ。
ところが、旧柳邸の公開は少しは混雑も予想はしていたものの、民藝館の方々もどうやってこの集まった方々に満足に館内を見てもらえるかで大慌ての様子だった。もしかすると民藝館はじまって以来の大混雑ではないかとわたしは思ったほどだった。
結局、ひととおりは見たもののどうにも気持ちが落ちつかなくてわたしは入口を出て、すみに据えられた水瓶のなかなんかを覗いていた。

小さな蛾の死骸が浮かんでいるのをしばらく見てから駒場公園の新緑の中を気持ちよく歩いた。

静かになったらまたそのうち柳さんの精神に触れたいと考えている。

posted: mitsubako: on 07:08AM | comments (3)

2006年06月21日

涙のこと

梅雨の夜、ぼんやりした月を見ていると涙がこぼれると書いたら、「そんなに哀しいことばかりなのか」と人から聞かれた。
涙はどういう時にこぼれるんだろう。
哀しいという思いや、気持ちは人にとても伝わりやすいことだけど、自分が嬉しいと思ったり、愛おしいと思ったり、大きな優しさにふれたときそれをどうにも伝えきれなくていっぱいになることってないだろうか。わたしの流す涙はそんな時の方がおおいように思える。
「ありがとう」とだけしか言えない…「それで十分だから…」。といわれても、もっともっとそれよりたくさん思っている。だのにその心が表せないでいると、ふっとした身の周りの自然なできごとに感情が奪われてそこに何かをたくしたくなるんだ。
そうなんだよ、だから見て見ぬふりをしていてほしい。

posted: mitsubako: on 07:06AM

2006年06月20日

京浜工業地帯

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京浜の土手
高速の下の忘れ去られた土の上
このガラスのかけらが水晶の十字架だったらと

posted: mitsubako: on 07:05AM

2006年06月19日

巡る土曜日

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先週末、大事な方から教えていただいた詩人の記念館へと早起きをして東京へ向かった。
梅雨の晴れ間とまでは言えないけれど、その日は薄日さす雲がいく層にも重なる朝だった。朝起きるとたいていは空を見る。どこへ行こうとも、なにを撮ろうとも思っていないのになぜかピンホールの準備までして重たい袋をしょって出かけた。
静まりかえった記念館で一週間の心の疲れが消えていく。自分の思うこととは何か異質で知らなくてもいいようなものばかり頭をかけめぐる仕事をしていると、本当に知りたいことの世界に入るために入口が必要になる。
記念館から外へ出るとなんとなく久しぶりの海岸へいってみたいと思った。JRにゆられて1時間、鎌倉の駅についた。人ごみを見て、失敗した…と思った。そうは思いながらも足は海へと向かってしまう。わたしの好きな冬の海にくらべて人はずいぶん増えていたし、水もにごっていた。それでも、曇り空の雲は絶妙で海ではなくて雲を見ていると飽きない。そして針穴で数枚ためし撮りをしてみると、晴天の時とはちがう淡いブルーで風とか波とか空気を取り込んでいた。そんなことに熱中しはじめた矢先「すいません」…と声がかかった。ふりかえればわたしを女子学生が取り囲んでいる。
「記念写真を撮ってください」というと5台ものインスタントカメラやデジカメやらをわたしの足元に置いて「うちら並びますから!お願いしま〜す」。
「えっ?インスタントカメラって使ったことないけど?」と戸惑うわたしに「押すだけなんで」とすっかりならんでポーズを撮って待っている。
なんでもいいや、彼女たちがこれを見たとき「楽しかったね」と思える1枚をたとえインスタントだろうがなんだろうが撮ってやろうじゃないか!という気になった。
何度も何度も、「ありがとうございます!」といわれた。ミニミニの制服のスカート、いろんなグッズをかばんにぶら下げて、どこにも接点がないような彼女たちが一瞬ちょっぴりわたしと身近になった。
それからわたしは大仏へと向かった。大勢の人でごったがえす中、不思議ともうそんなことも気にならず、ひたすら集中をして大仏を撮ってみた。「いいね、それ、すぐ見れるから」とか「あー知ってますよ、そのポラロイドのピンホール。そっか、大仏なんか撮るですね」。とまぁなんと大勢の人に声をかけられたことか…。
巡る土曜日、静かに過ごす時間も大事だけれど、見知らぬ人とのたわいもないできごともそう悪いものじゃないと思う。

posted: mitsubako: on 07:04AM | comments (4)

2006年06月16日

青の気配

わたしは今、デジタルの青色写真にちょっぴり凝っている。
サイアノタイプという古典的な技法があって、1842年イギリスのジョン・ハーシェルによるそれは発明だったという。ジョン・ハーシェルは天文学者で、南アフリカにわたり喜望峰で南の星空を観測し記録を残した人物だった。青写真ということばがあるけれど、もともとはこのサイノアタイプという技法から転じた意味をもつ。感光剤を塗った原紙の上に写し出したいものをのせて露光させる。薬品を洗い流し乾かすと、光を通した部分は濃い青色に、光を通さない部分は白く痕跡が残るいたってシンプルな方法だ。
アンナ・アトキンスという女性写真家はこの手法で "British Algae : Cyanotype Impressions" 『イギリスの藻 : サイアノタイプの刻印』というカタログ集を出版した。

Blue Prints The Natural World In Cyanotype Photographs という洋書はおそらく多くの方が知っているものだが、わたしはこの本の中のとくにとんぼの羽が好きだ。多彩色のイメージも楽しいけれど、青という1色の淡さや深さは神秘な空気を取り込む魔法がある。
最近、枯れた花びらや、虫、ひもなどをくもりガラスにあてて、射しこむ光に透かしてマクロ撮影するのがおもしろい。青で仕上げるとまるで深海のようにも見えたり、ひっそりと静まりかえったなにかをとらえていたりする。そのなにかをわたしはとりあえず今は気配ということばにおきかえている。

posted: mitsubako: on 07:05AM

2006年06月14日

チャット

イギリスに住む友だちとこの頃はチャットをしている。
考えてみれば、まだインターネットというものがほとんど普及しておらず、個人でメールアドレスを持つにはとても高かった頃からわたしはプロバイダに入っていた。
その頃のチャットは本当になんということもない画面に文字が表示されるだけで、それでもリアルタイムで打ち込まれていく様子を見て感激したものだ。今のチャットはもっとインターフェイスがよくできていて、絵文字まで打ち込める。
「元気?」「週末は何してた?」なんてどうでもいいおしゃべりをただしているだけだけれどメールとは違う奇妙な存在がむこう側にある。

ある時ほんの少しだけプライバシーに立ち入った話しになった。その友だちは今真剣に取り組みたいことがある。わたしはそれをやったらいいともっと適切なことばと思いで伝えたかったけれど、それにはやっぱり本当にここにいて、しっかり相手を見て声をかけてあげたいと思う。エールを送ってあげたいしhugしてそう思う気持ちを伝えられたらなと思う。
それができない物理的な距離はやっぱり淋しい。

posted: mitsubako: on 07:17AM

2006年06月13日

梅雨の月

どんよりした重たい夜、おそく仕事場を離れるときわたしは上を向いて歩く。
ビルとビルの間に、いやもしかすると東京タワーの近くに、それよりももっともっと高いところにぼんやり梅雨の月が見えているかもしれないからだ。
その日は、天に届きそうな権威的なビルの影に薄く薄く半月が出ていた。
なまあたたかい空調の風に吹かれながら、ため息をついてぼんやりつったて見ていた。
そしたらすっと涙がこぼれた。
都会にもたまにはいい夜もあるんだ。

posted: mitsubako: on 08:36AM | comments (2)

2006年06月12日

朝起きて、小さな苺が熟しているのを眺めていると色っぽいと思うことがある。
どこか艶めかしくて、誘われているように感じる。

昔いただいた匙の写真を薄暗い部屋のテーブルで撮っているとき、どうして口元に運ぶところが朱色なんだろうと思った。

口紅はあまりつけないけれど、苺と匙の赤を見ていたら、口紅の美しさが許せるようになった。自分には似合わないけれど、それをつけるのも悪くないとふいに思った。

posted: mitsubako: on 07:16AM

2006年06月09日

いちごをどうぞ

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ちいさな食べ種から4つ
いちごがとれました。

「いちごをどうぞ」

posted: mitsubako: on 07:17AM

2006年06月07日

青い檸檬

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いつだっただろうか、青焼きの校正紙が机の上に置かれていた
紫陽花の写真が妙にぼんやりと紙の上に印刷されている
いつもならそれほど目にとめないような花のイメージ
なぜかその青焼きを欲しいと思った

*机の上に檸檬が置かれているのを見てふっとそのことを思い出しました。

posted: mitsubako: on 07:00AM

2006年06月05日

テーブルと匙

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口もとへ匙の赤をはこぶ

*この匙をいただいた方はもうすでに亡くなりました。豆でもすくってみてくださいといわれました。

posted: mitsubako: on 07:22AM

2006年06月02日

今日はhappy

朝、出かける途上の道ばたで、みつばちに出会ったらhappy day

そんな小さな賭けごとをしながら駅まで歩くのが楽しみだ。
リトアニアかどこかの田舎道、両脇に無造作に生えた花の小道を入ると家がある…こんなフィルムシーンのような雑然とした古い小さな家が実は、自分の住むところからたった50mほどの距離に在る。
今、夏の花々が咲き乱れ、ごちゃごちゃしていて通りすがりに「いい感じだぁ…」と思いながら撮影に狙っている場所だ。そこをはさんで車の往来が激しい街道が、前を通っているとは思わせないような撮り方をしてみたいと目論んでいる。
ところで、その小さなスポットは夏の花、アオイ科の花々がぱっと明るく朝を迎えてくれている。まっすぐ空に伸びる茎に大きな太陽の花、その中央にむかって花粉を体中にかぶった一匹のみつばちがやって来ている!きっと明日も同じ時刻にやって来る…そう思うとそわそわした気分で落ち着かない。
そいつは花粉まみれで貪欲そうに見えるのに、それでもまだ花へ向かっていく、姿が小さいくせにとても大きな支配者に見える。

今日はhappy!

posted: mitsubako: on 07:59AM | comments (0)

2006年06月01日

薄暗さの先に

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んでいる。
ずいぶん若い頃にいくつかの谷崎文学には触れたものの、随筆はこれがはじめてになる。
写真に興味を持つようになって「暗さ」ということをあれこれ考えているうちに読んでみたくなった。もちろん、タイマグラをはじめとして、このごろ訪れてみたくなる日本の残された生活空間にも影響されているのは間違いない。
古い日本家屋は室内が薄暗いことが多い。文化財などの茅葺屋根の住居や、寺院などに訪れると、室内の薄暗さに目が慣れるのに時間がかかる経験をすることは多いであろう。
せっかく据え付けられた室内の調度品もよく見えないではないかと思ったりするが…。

日本の料理は食ふものでなくて見るものだと云はれるが、かう云ふ場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云う。さうしてそれは、闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。

なるほど谷崎のことばに吸い込まれていくと薄暗さにこそ控えめに深さを見せる数々の日本の感性を再認識できる。やっとこうした感性の世界が見えるようになってきた時、運よくめぐりあった随筆だ。
はかり知れない手仕事や感覚の世界をもったところに生まれでたわたしは恵まれていると思えたし、少しでもその感覚を自分のものにできたらなんて欲が湧いてくるのだ。

posted: mitsubako: on 07:30AM