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2006年05月31日

空にむかって

つかの間の青空にむかって
紙屑をまるめてほおってみた
何度も何度もほおってみた

そうしているうちにすっきりとした気持ちになった

posted: mitsubako: on 07:39AM | comments (0)

2006年05月30日

飛ぶ紙

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posted: mitsubako: on 07:37AM

2006年05月29日

たとえ紙切れだったとしても…

北園克衛が「造形詩についてのノート」の中にこんな一文を書いている。

詩人が選ぶ表現の道具のひとつにカメラがある。カメラは失敗した1握りの詩の紙屑からも美しい詩をとりだすことができる。

ただただ、なんの目的もないけれどそうしていることが、いやそうすることがたぶんわたしの道なんだろうと思う。生きている間はきっとどこかに書いて、落ち込んで、涙して、また書いて、喜んで、笑うんだと思う。
日常のなかでなんでもないことのように書きつづける、わたしはそうしていたいと思う。

posted: mitsubako: on 07:33AM | comments (3)

2006年05月25日

心と心をつなぐ空

「MURAKAMIの作品が好きか?」なにかの機会で海外の人と話すことがあると話題になるのが村上春樹。実はわたしはまだ一冊も手にしたことがないのだ。
そして…日本人というとMURAKAMIを話題にされることにもヘソまがりなわたしは何くわぬ顔をして「読んでないよ!」といいたくなる困りものだったりする。
村上春樹がどうこうということではなくて、典型とされることがただ苦手なのだ。

.Home Is Where The Heart Is.
これは、ケンブリッジに住むイギリスの友だちが自分の作品につけたタイトルだ。広大な草原にいるはずもない後ろ姿の舞妓が遠方の流れゆく雲を見つめている。
わたしはこれに絶句した。日本を訪れたことがあって、日本が好きで好きでたまらない彼の気持ちがちょっぴり共感できるからだ。
自分が訪れた旅先とはいいも悪いもいつの間にか心の中でその後の自分の体験と照らしあわせて温められていくことがある。最近、彼は村上の作品を読んでいるという。
初めは少し勘違いした日本好きかなと思っていたが、まさにわたしが相手に逆にステレオタイプをあてはめていたのだ気づいた瞬間だった。
人の心とか気持ちとかはそんなにすぐには見えないね。

many things in life are not as they first appear
そえられたこのことばにわたしはちょっと涙した。

心と心をつなぐ空は青いけれど寂しくって、見つめる背中は近いけど雲は遠い…。
わたしは祖母が着ていた浴衣をはおって、風の吹く南端の草原にたたずみ雲をぼんやり見ている自分の絵を心にずっとおもい描いていたから、ことさらあのイメージはデジャブだった。
久しぶりに胸がきゅんとする気持ちになった。

posted: mitsubako: on 07:33AM

2006年05月24日

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古くなって使いこむほどに味わい深くなる……。

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2006年05月23日

ある人から鉄のペーパーナイフをいただいた。南部鉄だ。
わたしは鉄瓶がとても好きでもう10年以上も前に旅先で立ち寄った小さな店で小型の鉄瓶を買った。それが岩手でなくて松島あたりだったというのも不思議だが。
火にかけている時の熱気をおびた鉄瓶を眺めているのも好きだし、しゅん、しゅん、と沸騰して湯気が出ているのを見るのも好きだ。
先日、岩手へ行った時、めずらしく盛岡の街を半日だけ歩いた。何度も訪れている街なのに、こうしてお店を見るのは初めてのこと。こんなことなら堀井和子さんの『北東のシンプルをあつめにいく』をもって来るんだったなぁ、と思いながら閑散とした街を楽しんだ。
中目黒のちょっと粋なHIGASHIという和菓子屋に南部鉄の作品を置かれている鈴木盛久工房をた訪ねてみた。民芸よりもぐっと洗練された数々の作品をひととおり見て、工房をのぞかせていただいた。灰のかかったような工房はどこを切りとっても現代美術だと思った。そして、工房で息を吸った時、奥畑さんが話していた、人間と鉄の関係は長いから体内で受容できる組織が完成されているということをふっと思い出した。
わたしが鉄に親しみを感じるのはそんなことからもあるのかもしれない。

posted: mitsubako: on 07:44AM

2006年05月22日

夜雲

こんなタイトルがあるかは知らない。
金曜日、いつものように夜道を歩いて仕事先からの帰路だった。その日は5月というのに湿度が高く、初夏に漂う樹木のにおいがしていた。
暗い夜だって空を見上げながら歩くことの多いわたしは、「あぁ…」と声を出したくなった。空の上を高速道路のように白い雲が流れていく。フィルムを見ているように流れを変え、形を変容させあっという間に通過していく。
街灯でさえあれだけ神秘に見えていたから、これがもし月あかりや夜空そのものの暗闇で見ることができたなら、体を震撼させる何か大きな力があるようにやっぱり思うだろう。
雲がかけぬけるから空は詩になるんだろうか…。

posted: mitsubako: on 07:03AM

2006年05月18日

すこしだけ伝えられること

だいすきでだいすきでどうしようもならない気持ちは宝ものだよ。
だいすきがたとえすれちがってもそのときそう感じて胸がいたくなるのは
生きていてそうおおくあることでもないから…。
いや、そうおおくあることなのかもしれないけど…。

青い空の草原に風がふいて
雲がつぎからつぎへと流れていく
ときがたって ひとり そこで涙するのもわるくない

posted: mitsubako: on 07:28AM

2006年05月16日

川井村採石所近く

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昨年春、自転車でまわった川井村。気になって心に残っていた場をまた今年も確かめてみた。
なにも変わっていなかった。

posted: mitsubako: on 07:52AM

2006年05月15日

針穴と心象

針穴写真は人の心の目といわれる。のらりくらりとそれを楽しんで少し時が経った。
わたしは市販のポラロイド社のものを使っている。やり始めた頃は、本当にこんなもので何が撮れるのかと疑心暗鬼だった。失敗に失敗をかさね、露光時間が長すぎて真っ白のまま出てくる。フィルム代はかかるしおもちゃにしてはかなり高価な遊びだなぁとちょっぴりストレスすら感じるようになっていた。それでもなんとなく持ち出してみてはブレのおもしろさに惹かれて細々と続けていた。ある時ちょっとばかり抽象らしきものが撮れて意表をついた。
箱を固定することにあえて執着していなかったわたしは、急の気変りで地面に固定して撮るようになった。あきらかにブレの少ない遠近感が不思議な風景が焼きつけられるようになってきた。
もうあれからどれぐらい、わたしは針穴の指をはずしたんだろう……。
このごろ、わたしの目がこの針穴のファインダーになってきたと感じる。見えていないはずなのに、フィルムをはがした時に浮かびあがる風景が心にイメージできるからだ。
5月の連休のほんの2日だけわたしは、突然、再び岩手県のタイマグラへ向かった。針穴がつかんだ村々の風景は、そこにかつてあったはずの気配をまるでそのまま取り込む装置だと思った。
戻ってから夜中に怖い夢でうなされた。取り残された場を撮りすぎて余計なものまでつれかえったかなと思った。

posted: mitsubako: on 07:46AM

2006年05月12日

蒔絵の針箱

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箱石とはなんと心にひっかかる名前だろうか。
宝石箱のようなものを思い浮かべたり、あるいは、四角く切り出された石を思い浮かべたりする。箱という形に惹かれるし、石という素材にも惹かれる。いずれにしてもミニマルな原形をとどめた感がこのことばにはあってわたしをひどく魅了する。
だから、そんな土地にありもしない空想を抱いてどんなにしても自分の好きな場所にこじつけたくなったりする。

ところで、まるで違う土地にこんな伝承があるそうだ。

母の形見の蒔絵の針箱をせめて後世に残しておきたいと姫は断崖から「石になれ」と命じて投げ落とした。それからその針箱は断崖を転がり壕に落ちて石になった。この石はそれ以来「箱石」と呼ばれるようになったそうな…。

*盛岡から走るローカル線のJR山田線の駅に「箱石」という駅がある。源義経伝説と箱石家にまつわる話しもあるようだが。

posted: mitsubako: on 07:32AM

2006年05月11日

薪ストーブ革命

「ふーー、ふーー」薪ストーブに息を吹き込んで火を見守りながら髭の主は静かに語る。
森には雨水をろ過する力があると。
若干の酸性雨であったとしても健全な森であったなら中和させる力があるはずだと…。

山を中心に生活を営んできた時代には、人が生活圏で必要とする森とその背後に自然林として放置される森がバランスよく保たれていたという。雑木林は枝を伐採したり資源木を倒木し、人の手を介してはじめて調和を保つ森林として存続する。里山とはそんなところだ。
人は木を利用して薪にしたり炭を焼いてエネルギーを生産した。薪や炭を燃料として吐き出す二酸化炭素は植物が吸収しふたたび新たな酸素を生みだしていた。
燃えかすになった灰は土に播かれることで土地の酸度を中和化させ、そこにしみ込む雨水は木々の根や土を通過して、やがて川に流れ出るまでにろ過されて、清流が流れ出るしくみになっていた。このバランス感覚は微妙であり絶妙で、人間の持つ勘と自然の方からの調和力で一定に保たれる。
人が必要以上に木々を伐採することからはじまる闇の連鎖は、黒い森をどんどん死へと追いやる。土石流をくいとめるために岩壁を工事しダムをこしらえ、ろ過できなくなった水を中和させるために中和剤をまき、その場しのぎの応急手当をすればするほど、社会はお金を使いながら悪循環を促進させる。

まずは森に灰をまこう。
だからと言って、どこかしこでもそう簡単にはできない仕事だ。今まだかろうじて薪ストーブを使っている地域で、火を起こすこと、使い続けることを絶やさないことからはじめよう。ある山村のこんな小さな働きが、わたしたちの生活圏を本当の意味で後々まで支えてくれるはずの政治改革だ。

髭の主の薪ストーブ革命は『わら一本の革命』に匹敵する改革だとわたしはその時思った。

posted: mitsubako: on 07:31AM

2006年05月10日

ある休日

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あったかい薪ストーブに集まって
おはなしを読んでもらう
おっきな頭もちっちゃ頭もほらだんだん近寄ってくるよ

posted: mitsubako: on 07:18AM | comments (4)

2006年05月09日

おきゃくさん

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わたしがおきゃくさんで山の小屋へおでかけしたら
もっともっとおきゃくさんがいた
にぎやかにあつまっていろんな声がきこえてくるよ

posted: mitsubako: on 07:14AM | comments (2)

2006年05月08日

放置された幻想果樹園

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あともう一息すると、あのもわっとした高温多湿の季節を迎える。あまり好きではない季節だけれど、その季節を楽しくするためにいよいよ土の準備をしようとベランダへ出た。今年も和綿だけは育ててみようと思ったからだ。

ベランダの荒れた光景を見て唖然とする。
わたしの生活感が植物たちにそのまま反映されていたからだ…。しばらく無言で息が詰まりそうになった。

放置していた幻想果樹園の枇杷は冬の寒さや乾燥に耐え見事に大きくなっていた。その合間に植えられているニューサマーオレンジとか夏みかんもそれなりに生きてはいるが成長ぶりは圧倒的に枇杷だ。「たくましいなぁ」ただただ頭が下がる思いだった。
申し訳程度に草を抜いた。見ているとバラのようなものが2本すっと生えていた。
「こんなとこにバラ?鳥でも来たのかなぁ」なんて思ってみたり。それでもとても不自然で気になったのでそっと抜いて移植をすることにした。
意外にすんなり抜けて、その根本にぽっこり割れた種がついていた。
種の形から想像すると、梅か桃かあんずだ。2年前に発芽しなかった食べ種と土をそういえばこの幻想果樹園に混合した記憶がうっすらと蘇る。
もしかするとだ、あんずかもしれない…と放置していた果樹にぽっと小さな夢の実が浮きたった。

posted: mitsubako: on 15:07PM

2006年05月01日

心身を休める

わたしは、心身をかならず休めることを自分の生活の中であたりまえにしてきた。
世の中の動きはそれとは反対の方向へ進んでいても、わたしはわたしでいられる範囲で自分のできる仕事をしたいと思ってきた。
自分の心身が健康でなければ、仕事はできないと思うからだ。

みつばちたちは、休みなく死ぬまで働いているようだけれど、わたしは今週は、ゆっくりとした心持ちで時を過ごせたらなと思っている。

それぞれの場にあって心も体も豊かな時を過ごしてください!

posted: mitsubako: on 11:15AM