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2006年04月28日
最南端の空模様
油断をしているとすぐに雲がかけだしてくる
そうすると真っ青だった空の低いところがおおわれて
雲の翳りにあたりは重くなる
草原に明と暗がくっきりと浮かび上がってくる
posted: mitsubako: on 08:10AM
2006年04月26日
泡色の乾燥

淡泊なはなびらはいっときで乾燥したはなびらに濃縮される
posted: mitsubako: on 07:57AM
2006年04月24日
やまばちのはちみつ

岩間くんの家にやってくる遠野のやまばちのはちみつは大事にしている。
わたしがお世話になっている蜂やさんのはちみつと同じように結晶になっている。色はすこし淡いミルキーだ。あと1週間もすれば、去年岩手に行ってからもう1年が経つ。そろそろ、春の目覚めのころ、あのころのことを思い出すとその瞬間だけ長閑な気持ちになれる。夢のような春の魔法をまた感じることができたらなぁ…。
はちみつの味もやさしく包まれたあの日の光をぽっと蘇らせてくれる。だからわたしはみつばちが好きなのかもしれない。
posted: mitsubako: on 07:46AM
2006年04月21日
はじめて見たハナバチ

ニホンヒゲナガハナバチというのがいるというのは図鑑などで見ていたけれど、本物に出会って飛びはねたいぐらいに嬉しかった。
それは、すぐ家の下に放置されている大好きなたんぽぽ群生の空き地だった。たんぽぽの様子はいつ見ても劇的で感動する。そこにニホンミツバチがやって来ているのは知っていたので、今日こそ撮影しようと小さな空き地にしゃがんで待っていた。目的のミツバチはたくさん来ていて写真は撮ったものの、本物の姿を見ていることほど楽しいことはないのですぐカメラをやめてしまった矢先だった。ふっと横目で右を見るとすっと長く伸びたひげ。「うわぁ、いるんだ」。体をうごかさないようにしてカメラだけ開いた。シャッターを押した瞬間にどこかへ飛び去っていった。
今年も近場での蜂観察がはじまっている。わたしだって春は気ぜわしいのだ。
posted: mitsubako: on 07:49AM
2006年04月19日
種と枯れたはなびら
伯父から生前の形見にもらったさくらの木のテーブルは、まだイスも修繕をしていないまま一番のお気に入りになっている。このテーブルを利用して、テーブルコンポを続けている。テーブルコンポとは、ただ、このテーブルの上で散策途上に拾ったものとか庭で収穫したものとかを並べて写真に撮ることを自分流に名づけた一応わたしの仕事だ。
じっくりと種やら、放置して枯れた花びらを眺めるのはこの上なく楽しい。外界のさくらの花が散って集めてきたものをピンセットで並べてみた。これを何日も置いているうちに乾いて、室内の風で机の上に散らばっていた。故意にはできない散らばりがいいなと思って1枚撮ってみたり、コピーを切り抜いていた書籍の抜粋の上に散らばる感じにまた1枚という具合だ…。
生から朽ちてもそこには美しさが溢れている。「美」ということばは本当はあまり好きではない。美的を一度はすべて排除した上で今はもう、そういうことはどうでもいいかなと思えるようになった。
たんぽぽの種を風に吹かれないようにと持ち帰った。
昨年咲いたあじさいがドライフラワーのまま公園に残っていてそれもちょっとだけ摘んできた。
種や朽ちた植物の世界には、瑞々しく自生していたころとは違ったかたちがある。形見にちかいと思えるのはわたしのただの幻想だろうか。
それらを眺めているとき、自分が死んだらたんぽぽの種のようになりたいと思った。
posted: mitsubako: on 07:40AM
2006年04月17日
Meegwetch ありがとう

小包の包装をごそごそと開くと、やわらかいどこか懐かしい香りが広がった。とても軽いのに厳重に包まれていたものの中身は日本ミツバチの巣だった。友人のまたその友人にあたる岩間くんのお宅にやってくる遠野の「やまばち」が作った巣を太陽の光にすかして眺めてみた。
こんな色をしたこんな光の射しぐあいのする窓べにいたら、きっとあたたかな気持ちにつつまれるんだろうなぁと思った。そしたら急にリラックスしてあくびが出てとろんと昼寝をしたい気分になった。
カナダのネイティブインディアンはMeegwetchということばでありがとうを表現するそうだ。この小包が届いて間もない日にこんなすてきなことばと出会った。このことばにはわたしを守ってくれる魂がやどっている。
日本ミツバチの蜜とMeegwetchは喜びの予感をたくさんわたしに届けてくれた!
ありがとう。
posted: mitsubako: on 07:38AM | comments (4)
2006年04月14日
野草
「春先は気ぜわしい季節……」と書いているのは甘糟幸子さん。ずっと前に購入していてやっと昨日から手にした『野草の料理』の1節だ。長閑な春をのんびり楽しもうというのは、おろかな都会化されたわたしの考えで、収穫を自分でしない者の思いなのだろう。
冬を終えていっせいに芽をだしはじめる野草は一番の旬のごちそうに見える。この感覚は岩手で出会った山の主、奥畑さんの中にも感じたし、海岸へ散歩にでかけたときに出会った主の中にも感じた。
散策をしていて周りの世界がごちそうに見えるというのはすばらしい感覚だと思う。もともと人にはそういう感覚があったはずなのに、いつのまにか古の人が持ち合わせた過去のこと、ひょっとすると野生とか野蛮とかそんなニュアンスにも受け取られてしまいそうなものかもしれない。
春が気ぜわしいと感じるのは、ごちそうの旬が瞬く間に過ぎ去ってしまう機会を逃さないためにだ。わたしもこの1年ばかり写真を撮る楽しさを覚えて、別の意味でこの惜しさ加減に遭遇している。ああ、つくしだ!いい色の芽が出ていると通勤途上に目にするものは、週末までは待っていてはくれない。春とはあっという間に草花を成長させてしまう魔力がみなぎっている。
posted: mitsubako: on 08:51AM | comments (2)
2006年04月12日
雨あがり

posted: mitsubako: on 07:26AM
2006年04月10日
黄色の革命
まっさきに春を感じる色は?と質問されたらなんと答えるだろうか。
わたしなら「白」。
春、庭先に最初に咲く花に白が多いから。それから黄色の順になる。
菜の花の群が風にゆられているのを眺めていると、光が生み出す黄色の革命だと思う。
一昨日、雷雨のあと、すぐそばの空き地をのぞきに行った。
一面タンポポの無法地帯だ。
シャワーを浴びた、黄色と緑がきらきらここにも革命をおこしていた!
posted: mitsubako: on 07:19AM
2006年04月07日
池のなか

posted: mitsubako: on 09:00AM
2006年04月05日
もう一度
春がやって来た。
気持ちをもちなおして、もう一度スタート地点にもどってみようと思ってピンホールを片手に近くの公園へ出かけた。タンポポが咲く草むらと同じ高さになって針穴から指をはずす。頭の中でカウント、「1…、2…、3…。」
光ってなんだろう。
ものってどうして見えるんだろう。
色ってなぜあるんだろう。
そんなことを考えるためにもう一度はじめからやりなおしてみたくなった。
今日のタンポポはきっと春の喜びをつたえられるよ。
posted: mitsubako: on 07:51AM
2006年04月03日
どんよりとした心
ことばと写真の表現とは…こんな非日常的なことに、この数ヶ月、だらだら、ぼんやりと考えを巡らせる時間が続く。ひどく行きづまっているということでもないけれど、これだけ長いあいだ、先が見えなくて、うろうろとしているのもめずらしい。それはそれでいい。いつかきっと解放たれると思っている。
こんなときに何度も足元から救い出されるような鍵とエールをくれた人たちがいる。まったくの他者であるわたしに対して示唆的なことばを送ってくれるとは…。
ある人は、自分がこれまでに影響を受けた作家リストを送ってくれた。50人もの名前を書いてくれて、自分の本棚からこの選出をするために思いおこしてページをめくる機会を与えてくれてありがとうとお礼までいわれた。
またある人は、わたしの単純な構成が好きだといって、実験映画の抽象作品について2,3のコメントを残してくれた。
他にもたくさんことばをくれた人たちがいて、即座にそれに向かうことはできないにしても、ポツリポツリと振り返ったり、作品を読んだり見たりしていくうちに考えや気持ちが整理されかけてきている。でもまだ遠いなぁ。行きつく先はとても遠い。
richard avedonの写真集を手にして、これまで通り過ぎてしまっていたronald fischerという"beekeeper"の写真がとても好きになった。
疲れて眠気が襲っているにもかかわらず、アンリ・カルティエ=ブレッソンの“疑問符”を夜中に見たりした。彼はインタビューのなかで、「自分がその場にいなければならないという不安感にひたる…」ということを語っていた。わたしが海に通いたくなるのは、少しその気持ちに近いかもしれない。自分がその場にいない間にいろんな現象が起きているに違いないと思うとそわそわして落ち着かなくなるからだ。
「決定的瞬間」とは、それまで、ただ偶然性がもたらすできごとだと思っていた。その瞬間に自分が居あわせている、わたしの目が捕らえていることだと思ったのはこの数日ぐらいからだ…。
posted: mitsubako: on 07:49AM