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2005年12月07日
ジェームス・タレル
ある雑誌で、佐々木正人さんとタレルが対談をした。対象物のないアートとしてタレルはこんな例を話している。
--ここによい体験的な例がひとつあります。夜に花が咲くきれいなサボテンがあるんですが、それは1年のうち一晩だけ、しかも満月の夜にしか咲きません。アリゾナ州にあって、それを見るには、キャナンドシェという渓谷に四輪駆動の車か馬で行き、日没前にその場所に着いて食事をして待つわけです。そして陽が沈んで冷えてくると、月が渓谷を照らし、サボテンが月の方向に向いて花が咲きます。どういうわけか虫もどの晩か知っていて、そこを目がけて集まってくるんです。とても興味深い状況です。やがて月が沈むと花も閉じ、朝の温度が上がってくるとしおれてしまいます。たとえば、日本のビルの最上階の温室に同じサボテンを置いたとして、テキーラを飲んでアメリカ南西部のようにみんな着飾り、同じ月が昇れば同じことが起こりますが、体験はまったく違います。同じ対象物を知覚していますが、私はその体験自体が貴重だと思っています。私の作品では対象物は取り除かれ、知覚の働き自体が問題となっています。つまり見ている物ではなく、見ている事自体が対象となるわけです。--
タレルの作品に触れると私は物への認知とか、自分が見えている世界について深く考えさせられる。見えていると思っている現実は実はリアリティがなくて、光を落とした時に闇の中に浮かび上がってくるもの、それが私の見えているもの、目で触れるものなのかと。
私は、本来、その場、その場自体が持つ固有のものが体験と直接的なかかわりを持っていると考えていた。タレルの作品の中では、そうした固有の場や対象物が排除されて、人間そのものが持つ知覚に訴えてくる。いや知覚が覚醒されるのかもしれない。人間はもともとは自然界の事象を読みとる能力があったはずだ。しかし、そうしたものは、段々に封じられ使わなくてすむ環境へと順応してしまった。熊野を訪れた時、修験に触れる機会が多くこの修験道が人に呼び戻していることはタレルの作品性ととても近しいと思った。
私は現在、テキストを軸にことばと場所性、記憶の断片をつなぎあわせる試みを繰り返している。対象物がどこにもないことを前提に電子空間にただ書きつけることを、初め目指していたが、不思議と対象があるという意識に陥ってしまっている。このことが、今最大の課題で対象ゼロのテキストとはどういうものか、瞬間的に光りの射すテキストはテキスト本来のものではなくて、そこにある余白なのか、わからなくて、悩んでいる。
これを書いたころの私の心境はこうだったのか…。今は悩みというよりは一生涯わからないまま探し続けることだという自覚がある。
ローデン・クレーターは、宇宙へ直接的に行かなくとも、宇宙の正体を知らなくとも、私たちがおそらく宇宙を知覚として認知できる空間であると信じている。タレルの飛行のソアリング=精神のソアリングを足がかりに、私は、私の旅を計画したい。
残念ながら、ローデン・クレーターのサイトは現在、更新中のようだ。とりあえず、どんな場所かだけはトップからおわかりいただける。
*このテキストは以前掲載をしたものをふたたび文章に少しだけ手を加えて更新しました。
posted: mitsubako at <07:28AM>