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2005年12月05日
静かなる憤慨
世の中で起きていることや風潮はなにで判断をしてるのかといえば、わたしは実はよくはわかっていなかったりする。だのに時々心の底の方から無性にこみ上げてくる怒りのようなものがある。マスに対して訴えてくるメディアとはあまり向かいあわないようにしているつもりでも、通勤をしたり、人が多数集まる場へ行けば、何かしらの風潮を察知しないわけにはいかないし、仕事ということからもそういう情報はたえず欲していなくても一方的に伝えられてくることだってある。
世の中は加速的に自然環境を意識したモチーフで氾濫をしている…と感じはじめたのはここ3、4年ぐらいのことか。とりわけそれが誇張されはじめていると感じたのはわりに最近だ。環境や自然共生に対することばの輸入がされて、それに類する造語とか新しい啓蒙雑誌が続出。どこを見渡しても似たような書き手と似たような記事紹介…あげればきりがないけれど「あれ?これって前に掲載されてなかったけ…」と錯覚をおこしてしまうほどだ。生活や健康に対して人間が心地よく生きるためには永遠の理想がある。現代のような形でスタイルとしての提案がなかった時代を生きた古人たちは一体、何を手本にそれぞれの生きざまを想い描いたのだろう。
今の情報のありかたとは違った時代に生きた人々は、もっと五感を使い、心を使い、自然と対話し、プリミティブな魂の根底で語りあってはいなかっただろうか…。
偶然だが、金関寿夫さんの書籍を読みはじめてみて、歌の消えたわたしたちの生活は、こむずかしいコンセプトをかかげ、学術的にあるいは体系化された二次的な、ことばを借りていうならば、魔法のことばが消えたスタイルの提唱の渦中に在る。こうして提唱されているものは、現代の「消費」社会に連動をしているもので、表向きはビジネスとかけ離れたイメージを売っていても結局はビジネスの対象や消耗される商品を生み出す契機となんらかわりはないという構造がなんとなく見え隠れしている。ましてや、そうした用語に登録商標化など必要だろうか。これでは、どこどこのお菓子の元祖はここだ!と主張しているだけのことで、そんなことに労力を費やしていること自体、ますますおかしな世の中になったものだと思って呆れ果てている。
あたりまえだけど、そんなことが本質ではないはずだ。もうやめようよ、そんなことを吹聴しなくても、それに向かっている人たちって案外、こことかそことかにいたりするよ。目だたないかもしれないけれど、普通にそうしている人たちにどれだけ本当の力をわたしは借りて生きているんだろうか。
ところで、憤りは鎮めよう…そして無言の亀になろうと思う…。
posted: mitsubako at <07:22AM>