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2005年12月31日

パタゴニア

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12月31日という日はいとも不思議な1日だと思う。11:59pmも近くなると“おわりとはじまり”が一番接近をする。
静かにずっと心の底であたためていることがみつばちともうひとつある。わたしの木箱のお話の根底に強くむすびついている大地のことだ。それがパタゴニアだ。まだ一度も訪れたことがないのになぜか自分の懐かしい思いがする土地。はるか遠くなのに原風景、いや、わたしの心の国だとずっとずっと思いこがれてきた地だ。サブライム、昇華ということばが溢れでそうな、そんなピュアな思いを寄せている地だ。そのパタゴニアの地からパンパの風にのって時おり、そっとメッセージが届くようになった。
現地語の響き、人恋しい目をした人たち、光と影に浮かびあがる山と平原、どこまでも深いアクアの湖水、強風にさらされた樹木と水面に浮かび上がる氷河のフォルム…そして何もないからっぽな草原地帯…。こうした情景に涙がこぼれ落ちることがある。
いつかなにも知らないこの地のことをもっと形にして伝えたい。それはすごく先のことかもしれないし、意外にすぐなのかもしれない。
年の終わりに、わたしが死について考えられるようになってきた時に送られたことばを残しておきたい。

私を描いてくれる人に
私の肖像を描いてくれる人に希望する。
私を裸で青い草のなかにおいて貰ひたい。青い草のなかに、冷たい草のなかに、ひつそりとおいて貰ひたい。そして、私のからだの廻りには青い丈長の草をずんずんと日の方へのびてゐるさまに描いて貰ひたい。寝てゐる私の體の下の地面から生えた草のうす赤い芽が、私の肉體を貫いてゐるところを描いて貰ひたい。私のからだから一面に草が生えてゐるところを、その草が青く空までのびてゐるさまに、すこし思ひ切つて豊かな想像を光らせて描いて貰ひたい。

前田夕暮

そしてあたらしく始まろうとしている1年には、愛読したジョナス・メカスの『どこにもないところからの手紙』から、友人のジョージ・マチューナスのことを綴った一文を書きとめておきたい。

『どこにもないところからの手紙』から
アンディ・ウォーホール---彼は54番街のディスコの入口に立ち、中には決して入らず、いつもポラロイド・カメラを手にしている。いまでも彼の姿をそこに見かける。すべてを見、すべてを記録する見開いた眼。ジョージもすべてを笑う、ウォーホールをも笑う。脆く、壊れ易い、さして意味もない、重要でもないみずからの世界を創るジョージ。誰もそれを買わないだろうし、売りもしないだろう。笑い、遊び、マッチ箱、なぞなぞ、何のためでも、誰のためでもない詩、そうしたものから成り立つ世界をジョージは創造する。

ジョナス・メカス

どうぞよい1年を! happy new year!

posted: mitsubako: on 23:20PM

2005年12月28日

寒気

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…ときには、自然の中に出かけ、
靴や履き物を脱ぐことを忘れるな。
そして、素足で歩き、大地の友情を
感じることを忘れるな…

どこにもないところからの手紙/ジョナス・メカス

posted: mitsubako: on 05:33AM | comments (2)

2005年12月26日

満心

この数ヶ月のわたしはことに感受することの多い日々でした。
殺伐とした乾いた日常の中にありながらも心の底からこみあげてくる数々の心象は
過去からの記憶であったり、人の哀しみを共受したり、あるいは読書途上の活字の1ラインだったりです。

わたしがわたしのことだけでたくさんになってしまわないように
あなたやあなたの体に感じるスピリットをもらえるように余白をいっぱいにとっておきたい。
あふれても、あふれても感じていたい。
ひとりぼっちの平穏な心を持ち続けること。

ひとりからひとりへ伝えることばはきっとその先の平和につながりますようにと祈っていたいのです。
だから、遠い先を見つめていようと思います。

posted: mitsubako: on 07:11AM

2005年12月22日

無題

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どうぞよい夜を…

posted: mitsubako: on 07:59AM

2005年12月21日

空にむかって

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冬の青空にむかって歩こう
いっぱいに開いた青にむかって

だいすきなこと を だいすきといえるように
かわいた空気のむこうに共鳴するぐらいのこころで
鋭くとがった氷の柱につき刺すぐらいのときめきを

とめどもなく溢れるおもいを あの青にむかって
viva!

posted: mitsubako: on 07:45AM

2005年12月20日

哀しい詩(うた)

悲しい詩を投稿してみないかといわれた
くりかえしの生活の営みのなかで小さな悲しみはいくつもある

1991年のことだった。花屋の店頭に真っ白な水仙があってジョンにこれを届けようとすぐに思った。1本だけ裸でもらってそのままバスでヘイトに向かった。通りから何本目かの道、ペンキで塗られた色のビクトリアンハウスが並ぶ。階段を上がって、ひと呼吸してから呼び鈴を押した。1回…2回。何回目かわからなくなってから黒い服と帽子をまとったジョンが白い顔をして戸を開けた。
「わたし、わたしだよ」。
「ああ、きみだったのか」。
具合のことを聞く勇気は出なかった。枯れきった体と透きとおった手を見れば、病に蝕まれていることは直感できた。
「あの、これ好きでしょ」。
「ねぇ、もうよくは見えないんだ」。
「白い花」。
「白い花…」。確かにそのうつろな視線は花を見つめてはいるけれど 笑みひとつ浮かべられない死の影がよぎる面持ちだった。冷たい白い手をぎゅっと握った。
「じゃあ、また」。

帰り道、わたしは泣きたかったから歩くことにした。白はジョンが好む清潔感のある花だと思ってもっていった自分が情けなくて、どうしようもなくて、ただただ泣いた。

この話の投稿はやめにした。悲しい詩にはならないからだ。その数日後、哀しい詩(うた)となって心に記録されたからだ。
そうして、同居人でジョンを最期までみとったダッグはキブツへ行くことを決めた日だった。

posted: mitsubako: on 07:38AM

2005年12月19日

come on!

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きゅんとさむいのがやってきた日
朝がたから白い息をはいて 空き地の塀をよじのぼった
霜一面 
地面はたんぽぽの墓場だった

posted: mitsubako: on 07:25AM | comments (1)

2005年12月16日

thank you honeybee!

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わたし=me
ゆめ=dream

どうかあきらめないでつづけられますようにと……

posted: mitsubako: on 07:39AM

2005年12月15日

if this is a word

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ことばってなんだろう……
文字ってなんだろう と ときどきおもうことがある…。

posted: mitsubako: on 07:37AM

2005年12月14日

はかない宛先

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dear anyone...

とおいとおい国に住んでいる人からクリスマスのご招待

街のあのカフェでホットチョコレートを飲みましょう
8つの笑顔に 8つの夢 そしてクリスティーナも一緒よ……

積まれた古い天体の本 埃まみれのタイプライター
さびた郵便ポストには 「はかなき住所」としるされていた

posted: mitsubako: on 07:30AM

2005年12月13日

白い紙

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posted: mitsubako: on 07:27AM

2005年12月12日

sちゃん

おとといポストにArneがとどいた
いつもなら まっさきにBOOKの頁をめくるのに
その手が ちょっとその前で 自然にとまった

sちゃんの白いテーブル…
もう何年も会ってないね

あいかわらずのセンスがひかるsちゃんのテーブル
すてきだなぁ 古きよきアメリカをおもわせる 懐かしさがある

元気でつくっていることがわかって嬉しかった
きっと いつもとかわらずに あのお山でこつこつとつくってるんだね

これからもずっとつくっていてほしいとおもう…

posted: mitsubako: on 07:23AM

2005年12月09日

かめ!

RIMG0575.jpgわたしは、少し昔の人なので12月にもなると今年1年の自分のことをふり返ったりする。
そういう気分になって、あれこれと心の片づけをしながら、ため息なんかついて、これからってどうなるんだろうなぁ…と漠然と考え込んだりする。暗さはない。
この1年ははじまりに少しつまずいていたけれど、あることから希望がたくさん広がって、あの人とかこの人とかと出会ったり、あの人とかこの人とかに元気をもらったり、あの人とかこの人とかから手紙ももらった。
外から眺めるわたし自身には変わりはないかもしれないけれど、心の中にはコアな小さな灯りがともって、ゆらめきながらもゆっくりと、いづれは死んで無くなることに近づいている気がする。わたしの死を描きながら、喜びをもってそれに向かえるような人になりたい。
前田夕暮がわたしたちに遺してくれたことばをくりかえし覚えていていたい。

わたしが読んだ書物、手にした木製のピン、見た映画、浮き上がるモチーフには亀があった…。小澤健二さんが『うさぎ!』を子どもと昔話に連載をはじめた。危機あふれる文章に共感した。彼がうさぎ!ならば、今年のわたしはかめ!…そこで今日のタイトルがついた。

*季刊『子どもと昔話』秋号25号 小澤昔ばなし研究所
**イメージはもうずっとむかしのこと、岡崎乾二郎さんがフランスへ行かれて、各地を回られ帰国後にいただいたおみやげです。スペインのかめの髪止め。
当時からすっかりショートにしてしまった髪には使えなくなってしまいましたが、大切にしています。なぜ、かめをくださっのか、今意味がわかりました。

posted: mitsubako: on 07:19AM

2005年12月08日

道草だらけのわたしだけど…

RIMG0504.jpgいろいろ考えてしまうことが多すぎて、自分では持ちきれなくなってしまうことがタマにある。そのたんびに弱虫だなぁ〜と思う…。最終的には「わたし」なんだけれど、それがどうにも定まらなくて、何をやってるんだかわからなくなる。航海術も知らないのに海に出てしまって途方に暮れているといった感じだ。
それでも、何かを考えていたい!そんな気力がいつもおへそのあたり、いやガッツだ、ガッツのあたりにあるんだ。だから、やっぱりやってみては再考し、ダメなら壊して、またやり始めればいい。

"no object, no forcus, no image" by James Turrell

「見なれないものを、見なれたものにする。見なれたものを、見なれないものにする。Making the strange familiar Making the familiar strange」by William. J. Gordon
浮谷東次郎が15歳の時クライドラーにまたがり『がむしゃら1500キロ』の旅をした。
この旅の結びにこんなことばがある。
「旅は、おもしろい、旅は道づれとかなんとかいう。自分という人間を相手は知らないし、自分も相手の人間を知らないから、旅は道づれなのだ。まったく新しい気持ちで、いつもの何倍もの好奇心と感受性をもって、人や、景色や、いろいろのものに接する事ができるのだ。だから、ごくあたりまえの事でも、すばらしい事に感ぜられるのだ」この浮谷が体得したことを筆者がウィリアム・J・ゴードンの発見に照らしたものだ。

このふたつのことばが、時間を経て私の頭の中で今結ばれている。みつばちの木箱の前身でやっていた活動がある。その頃から「対象」というものを意識しはじめた。対象がなんであるか知りたいかったし、貪るように学んでみたかった。

"no object, no forcus, no image"
見えないものを見えるようにする、対象物のないところに光りが射すそうしたひらめきのあることばと私は一体どこで出会うのか。
道草だらけのわたしだけど…。

*『blog考』として以前に掲載したものをだいぶ削ってみました。金関寿夫、ジェームス・タレル、浮谷東次郎、ゲーリー・スナイダーが連鎖を生んで何かが見えはじめたことを、残しておきたかったからです。

posted: mitsubako: on 07:29AM

2005年12月07日

ジェームス・タレル

P8190025.jpgある雑誌で、佐々木正人さんとタレルが対談をした。対象物のないアートとしてタレルはこんな例を話している。
--ここによい体験的な例がひとつあります。夜に花が咲くきれいなサボテンがあるんですが、それは1年のうち一晩だけ、しかも満月の夜にしか咲きません。アリゾナ州にあって、それを見るには、キャナンドシェという渓谷に四輪駆動の車か馬で行き、日没前にその場所に着いて食事をして待つわけです。そして陽が沈んで冷えてくると、月が渓谷を照らし、サボテンが月の方向に向いて花が咲きます。どういうわけか虫もどの晩か知っていて、そこを目がけて集まってくるんです。とても興味深い状況です。やがて月が沈むと花も閉じ、朝の温度が上がってくるとしおれてしまいます。たとえば、日本のビルの最上階の温室に同じサボテンを置いたとして、テキーラを飲んでアメリカ南西部のようにみんな着飾り、同じ月が昇れば同じことが起こりますが、体験はまったく違います。同じ対象物を知覚していますが、私はその体験自体が貴重だと思っています。私の作品では対象物は取り除かれ、知覚の働き自体が問題となっています。つまり見ている物ではなく、見ている事自体が対象となるわけです。--

タレルの作品に触れると私は物への認知とか、自分が見えている世界について深く考えさせられる。見えていると思っている現実は実はリアリティがなくて、光を落とした時に闇の中に浮かび上がってくるもの、それが私の見えているもの、目で触れるものなのかと。
私は、本来、その場、その場自体が持つ固有のものが体験と直接的なかかわりを持っていると考えていた。タレルの作品の中では、そうした固有の場や対象物が排除されて、人間そのものが持つ知覚に訴えてくる。いや知覚が覚醒されるのかもしれない。人間はもともとは自然界の事象を読みとる能力があったはずだ。しかし、そうしたものは、段々に封じられ使わなくてすむ環境へと順応してしまった。熊野を訪れた時、修験に触れる機会が多くこの修験道が人に呼び戻していることはタレルの作品性ととても近しいと思った。
私は現在、テキストを軸にことばと場所性、記憶の断片をつなぎあわせる試みを繰り返している。対象物がどこにもないことを前提に電子空間にただ書きつけることを、初め目指していたが、不思議と対象があるという意識に陥ってしまっている。このことが、今最大の課題で対象ゼロのテキストとはどういうものか、瞬間的に光りの射すテキストはテキスト本来のものではなくて、そこにある余白なのか、わからなくて、悩んでいる。

これを書いたころの私の心境はこうだったのか…。今は悩みというよりは一生涯わからないまま探し続けることだという自覚がある。

ローデン・クレーターは、宇宙へ直接的に行かなくとも、宇宙の正体を知らなくとも、私たちがおそらく宇宙を知覚として認知できる空間であると信じている。タレルの飛行のソアリング=精神のソアリングを足がかりに、私は、私の旅を計画したい。
残念ながら、ローデン・クレーターのサイトは現在、更新中のようだ。とりあえず、どんな場所かだけはトップからおわかりいただける。

*このテキストは以前掲載をしたものをふたたび文章に少しだけ手を加えて更新しました。

posted: mitsubako: on 07:28AM

2005年12月06日

ローデン・クレーター

PB210003.jpgno object, no forcus, no image" by James Turrell
「今、どこにでもすぐに行けるとすれば、まっ先に行きたいところはたくさんある。その中でも特に、行きたいのは、アリゾナ州にある死火山、ローデン・クレーターだ。」
以前にこんな文章を書いてからまた少し時間がたった今でもこの気持ちは変わらない。
その後、プロジェクトは継続できているのだろうか…。

ジェームス・タレルは心理学と数学の学位を取得後、美術を学ぶ。飛行機の操縦免許も取得しそれらを統合した、知覚認識と光をモチーフに壮大な作品展開をしている作家だ。
アリゾナの砂漠に50万年前に一度だけ爆発をしたきり活動をやめた火山がある。裾野は溢れだした溶岩の台地でその下には、先住民のインディアンの聖地、丸く石を並べたお墓が点在しているそうだ。
タレルは丸いきれいな円を描いたなだらかなすり鉢の底のようになっている火口を改造して、麓に地下室をつくりそこから火口へ約350mの傾斜したトンネルを掘った。火山のトンネルをのぼって行くと急にぽっかりと口を開けた空が見えるのだそうだ。これは宇宙を観照する場として、天文学的にも計算した設計がなされている。18.6年に一度、真南に南中する満月の月がすっぽり、そのトンネルの中に入るようになっているというのだ。ピンホール・カメラの原理で、地下室にその月がおそらくは逆さまになって映るしくみになっている。これから先2000年間に起こりうる天体の動きも取り込まれているという。
最近になって読んでいる金関寿夫さんが訳されたネーティブアメリカンの詩の数々に触れたり、今年の夏にカチーナドールの展覧会で見たものが合わさって、どんなところだろうと目をつぶって思い浮かべるだけでもどきどきする。
死火山はきっと亀の島にちがいない…。
*このテキストは以前掲載をしたものをふたたび文章に少しだけ手を加えて更新しました。

posted: mitsubako: on 07:24AM

2005年12月05日

静かなる憤慨

RIMG0581.jpg世の中で起きていることや風潮はなにで判断をしてるのかといえば、わたしは実はよくはわかっていなかったりする。だのに時々心の底の方から無性にこみ上げてくる怒りのようなものがある。マスに対して訴えてくるメディアとはあまり向かいあわないようにしているつもりでも、通勤をしたり、人が多数集まる場へ行けば、何かしらの風潮を察知しないわけにはいかないし、仕事ということからもそういう情報はたえず欲していなくても一方的に伝えられてくることだってある。
世の中は加速的に自然環境を意識したモチーフで氾濫をしている…と感じはじめたのはここ3、4年ぐらいのことか。とりわけそれが誇張されはじめていると感じたのはわりに最近だ。環境や自然共生に対することばの輸入がされて、それに類する造語とか新しい啓蒙雑誌が続出。どこを見渡しても似たような書き手と似たような記事紹介…あげればきりがないけれど「あれ?これって前に掲載されてなかったけ…」と錯覚をおこしてしまうほどだ。生活や健康に対して人間が心地よく生きるためには永遠の理想がある。現代のような形でスタイルとしての提案がなかった時代を生きた古人たちは一体、何を手本にそれぞれの生きざまを想い描いたのだろう。
今の情報のありかたとは違った時代に生きた人々は、もっと五感を使い、心を使い、自然と対話し、プリミティブな魂の根底で語りあってはいなかっただろうか…。
偶然だが、金関寿夫さんの書籍を読みはじめてみて、歌の消えたわたしたちの生活は、こむずかしいコンセプトをかかげ、学術的にあるいは体系化された二次的な、ことばを借りていうならば、魔法のことばが消えたスタイルの提唱の渦中に在る。こうして提唱されているものは、現代の「消費」社会に連動をしているもので、表向きはビジネスとかけ離れたイメージを売っていても結局はビジネスの対象や消耗される商品を生み出す契機となんらかわりはないという構造がなんとなく見え隠れしている。ましてや、そうした用語に登録商標化など必要だろうか。これでは、どこどこのお菓子の元祖はここだ!と主張しているだけのことで、そんなことに労力を費やしていること自体、ますますおかしな世の中になったものだと思って呆れ果てている。
あたりまえだけど、そんなことが本質ではないはずだ。もうやめようよ、そんなことを吹聴しなくても、それに向かっている人たちって案外、こことかそことかにいたりするよ。目だたないかもしれないけれど、普通にそうしている人たちにどれだけ本当の力をわたしは借りて生きているんだろうか。
ところで、憤りは鎮めよう…そして無言の亀になろうと思う…。

posted: mitsubako: on 07:22AM

2005年12月02日

黄身しぐれ

RIMG0475.jpg好きな和菓子は何かと聞かれたら即座に答えられるだろうか。確実にその中のひとつにあげられるものに「黄身しぐれ」がある。接写機能がすぐれたカメラになってそこいら中のものをクローズアップ…。とうとう「黄身しぐれ」までクローズアップされてしまった。近所の和菓子屋さんも何十年もたつうちに、職人の代がかわり、こんな街の片隅でも、はやりを取り入れ洗練された生菓子がガラスケースに並ぶようになった。
昔は、草もち、桜もち、うぐいすもち、柏もち、くず桜、水ようかん、栗むしようかん、黄身しぐれ、大福などが季節ごとの定番として売られていたぐらいで、餡はとても甘味が強い単純な純風の和菓子屋だった。それが、すっかり甘味をおさえた和菓子に時代と共に変化してちょっとしたお茶の時間を十分に楽しめる味を売る店になった。
「黄身しぐれ」はあのもろい表皮がとても好きだ。卵の風味がしてぽろぽろ崩れながら口の中ですーっと溶けていく。クローズアップした写真を眺めていたらふっと、どうして黄身しぐれと呼ぶのだろうかと不思議になった。
時雨は陰暦の10月。初冬のころに、いっとき風が強まってぱらぱらと降ってはやんで通り過ぎてゆく雨のことをいう。今さらだが、黄身しぐれは、丁度、今ごろの季節にあった和菓子なんだと知った。素朴な月を象った形のようにも見えるこの和菓子は「時雨」という命名から涙をさそう。なんと深い豊かな味わいなのだろう…こんな食文化圏に生まれて本当に幸せものだ…。

posted: mitsubako: on 07:59AM | comments (2)

2005年12月01日

カメラ

gr.jpg前にも書いたけれど、カメラのことはまるで詳しくない。祖父は長崎に生まれ、その街の気風からか1900年代初めには、もうすでにかなりのカメラ撮影をしていた。祖父が長生きでもしていてくれれば、きっともっとわたしにいろいろ教えてくれただろうにと残念でならない。わたしは、完全にデジタルからカメラの世界に入った。それから今少しだけ暇があれば、ピンホールを楽しんでいる。ここ数週間、銀塩時代に脚光を浴びたといわれているRICOH GRモデルとやらのデジタルを使用させてもらっている。自分では、これまでのデジタルカメラとの差異がまだわからないのだが、テスト撮りでたまったものを眺めていると、やっぱり何かが違うような気がしている。なんとなくだ。使い方もまたいつもの通り、すぐにマニュアルからは入らないので、ただただひたすら試すのみ。それでも風合いとか臨場感が増して撮れているように思ったりするのは錯覚なのか…魔法なのか…。
このカメラは1.5cmの近距離でマクロ撮影が可能だ。実は、これで、みつばちの接写をしてみたいのが当面の小さな夢だったりする。マクロだけど、昆虫写真みたいじゃないみつばちを撮るぞ…というのがちっぽけな願いだ。だけど、気がつけば辺りのみつばちの姿はめっきり少なくなった。巣穴であたたかく今年の収穫を少しづつ食べながら春を待つのだろう。ゲルハルト・リヒターが写真を絵画に置き換えたように、わたしは春が訪れるまで、わたしの好きな冬の情景をおさめてそこからことばをひろってみよう…。その冬だってなかなかそれらしくはやってこないこの頃だけど…。

posted: mitsubako: on 07:25AM