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2005年11月30日

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余は霜を愛す。其の凛として潔きが為に。其の牢晴を報ずるが為に。
清美なるは霜白き時の朝日なり。

『自然と人生』というタイトルをもし英語で訳すならnature and lifeとしてしまいそうだが、調べてみると、この訳はnature and manになっている。なるほど、その方がもっと自然との関係が対峙的に見えてくるように思う。
徳富蘆花の『自然と人生』は岩波の文庫本で持っていて、通読したことはまるでないのだけれど、時々、ぱらりと見ては漢字に感慨を覚えてしまう。
今年の2月、琵琶湖を旅したとき、枯れ行く蘆の群生が見たくて新幹線に飛び乗った。この時、蘆花が引用した清少納言のことばをもう一度読んだ。「蘆の花は見所とてもなく」だ。見所のないところがまたたまらなく愛することの対象となる…なんとなくそれは今のわたしに身にしみてわかるようになったことのひとつだ。
蘆花は、蘆花なる所以をここに見いだした文章を書いている。

静更に寂として、唯限りなき蘆花の蕭々として風に鳴るあるのみ。

くどくどした解説文はなく、漢字の組合せにすっきりと削られた一文は、風景が視覚的に蘇る、案外ミニマムな表現なんだとこのごろ思う。

posted: mitsubako: on 07:23AM

2005年11月29日

『動物園の珍しい動物』

RIMG0463.jpg以前、エントリーで金関寿夫さんの『ナヴァホの砂絵』を読んでいると書いた。その後、金関さん関連の書籍をいろいろ手にしてみている。『動物園の珍しい動物』は金関さん編の日本のライト・ヴァース選集。その選集のあとがきにも書かれていたけれど、ライト・ヴァースって…。金関流に訳せば軽い詩のことなのだそうだ。それほどそういう詩に出会っているかはわたしもよくわからないのだけれど、ナンセンスな戯れが歌になっている詩ということなのかな。分類とかはわたしにとってはとても重要なことでもないのでとにかくこの可愛らしい選集を時々声に出して読んでいる。

動物園の珍しい動物
セネガルの動物園に珍しい動物がきた
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。

天野忠

なかでもとりわけこの詩がわたしは気になっている…
『動物園の珍しい動物』 金関寿夫編/元永定正絵(書肆山田)

posted: mitsubako: on 07:11AM

2005年11月28日

逗子

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逗子、鎌倉、北鎌倉といった湘南地方は本当に小さいころから馴染んだ土地だった。満州から引き揚げた母方の祖父は北鎌倉の円覚寺の裏山にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計で一軒の家をかまえた。南側が開いていて、太陽が射し込み、芭蕉が揺れるいい木の家だった。
母は満州生まれの北鎌倉育ちだったから今ほど観光地化していない時代の古き鎌倉を知る人だ。今はもうすっかり変わりはてた鎌倉にはあまり足を運ぶこともなくなった。北鎌倉の家もいつの日かとり壊されていて、空き地になったところを訪ねた母の残念そうな表情は今でも覚えている。それでも、彼女の記憶の中にイメージとしていつまでも残っているその場所を語る顔には喜びがあった。
わたしは、それほど遠くない小さな旅にこの頃は逗子を選ぶ。以前なら車を走らせて、片道3時間ぐらいのドライブで山村へ出かけていくのもよかったけれど、この頃は、もっと近場でたっぷりとその場を散策するのが一番のリフレッシュだったりする。自転車が一緒だとなおさらご機嫌だ。
逗子の蘆花記念公園からのんびり郷土資料館まで散歩をして、閑散とした庭で半日をぼんやり過ごし、夕方、夕日の浜辺へ降りるというのがお気に入りだったりする。
郷土資料館は大正元年に建てられた徳川家の元貴族議員の別荘だ。木造の平屋で広い縁側からは逗子海岸が見渡せる。木枠のガラス戸に囲まれた廊下からは中庭が歩くたびにちがった風情を見せ、こと秋の光と木々の紅葉に囲まれた周囲の山は気持ちを落ちつかせてくれる。日本の家屋は窓の木枠や、すりガラス、ちょっとした隙間が微妙に光りの射し込み具合を陰と陽にわける。時間の経過と共に光の遊びを感じて、住まうとはそうしたことに慣れ親しみ、愛でることなのではないかと考えたりする。
この他にも小さな山道コースがいくつかあって、逗子・横須賀の自然を楽しませてくれる。1度や2度でその良さはわからない。四季折々に足を運ぶごとに愛着とちょっと不便に魅力を発揮している土地柄が見えてくる。

posted: mitsubako: on 07:10AM

2005年11月25日

理想のくらし

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海と山の両方が近いところでくらしてみたい
小さな平屋の古い家で
南に開かれた窓には縁側がある
冬にはぽかぽかの日だまりがあって
ねそべってみたり ひるねをしたり 本を読んだりしていたい
そこからは実のなる樹が見えたり みつばちの木箱が木陰にあって
いつまでもそれを眺めていたい

夕暮れどきには浜辺へいって 今日の夕日を見つめていたい
夜になれば 山の稜線から昇る月に挨拶をして
月あかりにひかるくもの巣なんか見れたら嬉しい
夜は静かに眠れて 朝焼けとともに鳴く鳥の声で夢から目覚めてみたい
朝露にひかる林へ朝の散歩をして ゆっくり朝ごはんを食べたい
午後になると郵便屋さんがいろんな国から手紙を届けてくれて
1日の残りの時間はその手紙を読んで 返事のことを考えていたい

穏やかなこころ持ちで 世の中の雑音を断って 平凡な日々の恵に生きてみたい
そしてそこには いつとはわからないけれど大好きな本屋さんがやってきてくれる

posted: mitsubako: on 07:03AM

2005年11月24日

自分の字

自分の書く字をどう思うだろうか。字はその人となりをあらわすといわれるけれど必ずしもそうともいえないこともある。最近、人の字を見る機会がものすごく減ったと思う。パソコンになったというのもあるけれど、手書きの文字にも一種のはやりがあるので、描くのがうまい人は少し練習をしているとなんとなくそんな字が描けてしまうのだ。
その昔高校生のころ、まるい文字がわたしのクラスで流行った。友だちと時間があればノートにサインペンでころころ文字を何度も練習をした。
そういえば、黒板に文字を書くことももうないから忘れていたけれど、あれはあれでまたひとつの技でもあった。先生自身のことはあまり好きではなかったけれど、その字がとても好きで眺めているのが楽しかった。大きな、大きな字でキーワードになる熟語しか書かない。文章を書く時には縦書きだった。
先生のことは忘れても、その字の形は今でもよく覚えていたりする。
時々、墨跡の冊子を見てみたりすると、成人らしい文字に感動したりする。
心が伝わる文字、考えた跡が残る文字、はしり書きの文字…
自分で字を書いているとそういうことが浮かんできたりする。

posted: mitsubako: on 07:00AM

2005年11月23日

ナヴァホの砂絵

PB200002.JPG金関寿夫さんの『ナヴァホの砂絵』を読み出している。詩人のぱくきょんみさんの書かれたもののなかに時おり登場されていたのでいつの間にかこの流れがわたしの中にやってきた。
ナヴァホインディアンの祭式の中に砂絵を描く大事な儀式があるという。祭式はナヴァホに伝わる神話に基づいて口誦詩が歌い続けられその中の一部に砂絵を制作する「時」があるのだそうだ。ひととおりの儀式がすめば、彼らにとって砂絵は美術品ではないので、まとめられて、方角に向かってそれぞれ撤いてしまうのだ。
金関さんはこれを何度も「一回性」と告げている。
わたしはこれを読んだ時、すぐにレヴィ・ストロースの『ブラジルへの郷愁』を思い出した。現在を生きるわたしはいかに多くの複製やイメージの移植から二次的に喜びや哀しみといった感情を受けとっているのだろうかと。
金関さんのことばを引用すると「文字というものをもたない民族のことだから、彼らの詩も、砂絵と同じく、本来一回性のものである。ただその中のいくらかが、彼らの頭の中に記憶され、口から口へと伝わってきているだけなのだ。それを白人の宣教師、探検家、人類・民族学者、詩人などが英語に直したもの--したがって原の詩とはかなりかけ離れたもの--が、私たちに読むことができるもので、…」
さまざまなものが翻訳というズレの中に意味を変え様式を変えわたしたちに新しいイメージが生まれるのだと思う。
一回生の砂絵を保存するためにニカワづけにして美術館に収集されているものを見て感動をする。「一回性の口誦詩としての、その根源の神秘に、幾分でも触れるからかもしれない、彼らの生活神話を分かちもたない現代人に許されるのは、せいぜいそれ位の喜び、だがそれだけでも、すばらしい喜びなのである。」
金関さんのいうところの「せいぜいそれ位の喜び」がいかに増えた今の時代だろうか…。

posted: mitsubako: on 07:58AM

2005年11月22日

体をあたたかく

風邪の季節がやってきました。
わたしは必ず、一度や二度は冬の間に風邪をひいてしまいます。今年は、ひきそうだと思うことがもう何回かあって、なんとかくい止めています。ひいてしまって熱でも出せばそれはそれで体の浄化になるのでしょう。それにしても、あの怠さとか、目から鼻のまわりが湿地帯のようになる時は重たくて、煩わしくて、願わくば自分の身体を脱ぎ捨てたいという思いがします。
冷えたものを飲んだり食べたりはできるだけせずに、季節のものを食べて、体をあたたかくしたいものです。野菜のスープとか、ホットアップルジュースとか…あたたかくて湯気がふぁーっと広がるものをふうふういいながら口にしたいものです。
眠る前には足先が冷えないように、そろそろ湯たんぽの準備。ふとんへもぐりこめばぽかぽかだとわかっていると安心して眠りにもつけそうです。湯たんぽのちゃぷちゃぷいう音は不思議と心が落ちついて、だんだんに眠りの世界へとさそってくれます。
自然酵母の発酵の温度は36度前後、みつばちの巣箱の温度もだいたい36度ぐらいに保たれています。人の体温も昔は36度前後といわれていたので、36度線を大事にあたたかくしていたいです。
“体をあたかかく…”

posted: mitsubako: on 07:54AM

2005年11月21日

草はら

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前にもいちど空き地やはらっぱのことを書いたことがあったけれど、今年の秋ほど草はらがいいなと目にとまったこともなかった。
秋とはいいつつも、むしろふたたび春が巡るような陽気が夏の後しばらく続いたせいか、花の感じが春を思わせるほど明るかった。
「Kai-Wai散策」というブログをご存知の方はとても多いと思うのだが、わたしは友人から教えてもらってこのサイトを読んでいるひとりだ。東京界隈が主だけれど、時々また違った界隈も登場する。通りすがってしまうようなもの、懐かしいもの、路地裏のようなところに目線をあてて、淡々と収集をしている。わたしの友人いわく「標本系ブログ」なのだそうだ。
山口県の三隅町というところへ行かれた時、はらっぱが目についたことを書かれていた。
PA230072.jpgわたしが、この秋はらっぱばかり撮影していたので、すごくこのエントリーに反応をしていていつかここでも書こうと思っていた。
もっとも、わたしの場合は、草花にやってくるみつばちの方が主流だったりするのだが、そうしてみつばちを追っかけているうちに気づかされる事象が実に多くて驚いている。わたしは、放置された草がぼうぼうの草はらがとても好きだ。放置された草はらは、人がどんなに造園をしようとしてもなかなかできない趣きがあったりして、その年の優位な草がほとんどの面積を優先していたりする。そんな中に人がかつて園芸をして植えたような園芸種もまざっていたりすると、なおさら想像を膨らませたりする。放置の影に人の気配とか暮らした跡を感じるからなのかもしれない。そして、放置の間に草に覆いかくして忘れてしまいたい人の陰もあったりするのだろうと思う。秋の夕暮れの光に照らされる草はらの色はなんともいえない黄昏れ気分と枯れ行く冬を想わせてくれる。だのに、今年はピンクのフシネハナカタバミの繁殖がすごいなとも思った。

posted: mitsubako: on 07:47AM | comments (2)

2005年11月18日

とおい空

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posted: mitsubako: on 07:25AM

2005年11月17日

そらを飛ぶこと

R0010052.jpgその昔から人は空を飛びたいという夢をもっている。
青い空に広がる綿のような雲のあいまをぬって
光の中を自由に飛べたらどんなに気持ちがいいだろう。

パナマレンコという作家は、羽ねをつけて空飛ぶものに固執した作品や設計図で知られている。雪だるまと一緒に撮影されたセルフポートレートからはじまる画集には、とんぼとか蝿とかもちろん鳥とかの観察からはじまった空飛ぶマシンがぎっしりと詰まっていて楽しくてしょうがなくなる。どこか、子どもじみたこの夢に真正面から取り組んでいる姿がかけがえのない魂に思えてきて滑稽だけと悲哀や郷愁もあって心にひっかかって仕方がない。
たぶん、そこには「なんで?」と聞かれても答えきれないわたしのみつばちへの思いと重なるものがあるからなのかもしれない。
できたら、自由でいたいという願望がそこにたくされているからなのかもしれない…。

posted: mitsubako: on 07:43AM

2005年11月16日

智恵子のにひ盆

智恵子が亡くなってにひ盆をむかえても、光太郎はさっぱりお盆というような気がしなかったと書いている。年中此所にいるのだから、わざわざあらたまったことをする気がおこらないのだと。
「あの世とは何も遠いところではない。あの世とはみんなの頭のなかにいつでも存在しているし、現世といつでも交通しいるところである。」
……
「親族関係や世間一通のつき合いに一一そんなことをいってがんばる必要もないから、黙っておとなしく世間の仕来りに従っているが、自分一人の時にはすべてさういふ類の事を抹殺し盡すのである。」

智恵子の写真の前に知人から送られて来たメロン、レモンを置いたりしていたが、光太郎には智恵子の紙細工が彼女の全生活に見えもっとも智恵子を感じるものとなっていた一文がある。

「其れを見ていると智恵子の魂も肉體も智慧も欲望も、そしてかぐはしい此世の讃歌まで感じられ、又私への無言の訴をもひそかに聴くのである。實に細やかな、かくれた、口には出さぬいたはりが畫面に満ちている。私の藝術も願わくは斯ういうふやうにありたいと此を見るたびに思ふ。
智恵子の一生は最も純粋に此所にいきづいている。」

posted: mitsubako: on 07:41AM

2005年11月15日

『光太郎智恵子』

R0010045.jpg光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

静かな、落ちついた時間の流れの中でどっぷりと読書の世界にふけることはまるできていないけれど、それでも秋になると体の底の方から夢中になれるエネルギーがわいてきて本を手にしている。
光太郎をめぐる周りの方々との書簡が集められたこの本は生きているなかでかかわり続ける人への想いが見えてくる。思いやりだったり、葛藤だったり、哀しみだったり、
安堵だったり…。その人が生きた時代が見えてきたりもする。以前に書いたことのある、わたしの祖父の手紙のことを思い浮かべながら少しずつ、手紙ぐらいの速度で、わたし宛にいただいた気持ちで読んでいった。

昭和11年12月12日 光太郎作
穴ずまひ
おれの貧はへんな貧だ。
有る時は第一等の料理をくひ、
無い時は幾日でも菜っぱに芋粥。
とれる腕はありながらちっとも取れず、
怠けずにやればやる程くひこみ、
たのまれた仕事はもとを切る、
あるものは人にやってしまひ、
なくなれば飯も炊かない。
子供は無いし、妻は病院、
けつく自分一人の穴ずまひだが、
第一等と最下等と、此の二つが
おれの生活にはちゃんぽんに来る。

posted: mitsubako: on 07:37AM

2005年11月14日

不思議と思う場所

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このあいだ、ちょっとした小さな林で立ちどまった場所がある。
秋から冬へと移り変わるのこの季節、夏のから比べると遠く離れた太陽の光は侘びしさと一緒になって泣けてくる光を描いてくれる。朝と夕の光が大好きだ。
木立はとりわけ風の具合とかで射し込む光が一時一時変わり続けていく。
こんもりと盛られた土の上に草が生え、周りを木が囲んでいる。木霊が集まっているようにも見えるし、なにかを葬っているようにも見える。
淋しさは感じなかったけれどお墓だと感じた。

posted: mitsubako: on 07:31AM | comments (2)

2005年11月11日

久しぶりのおしゃべり

R0010004.JPG*2004年11月27日のblogから
2年ぶりだろうか、P3ギャラリーの伊藤忍さんと、久しぶりにお昼を食べながら、午後のひと時おしゃべりをたくさんしたのは。忍さんとは四谷の東長寺内にP3があった頃からの友人で、私はその時、現代美術のひとつの大きなイベントを抱えていてP3には大変にお世話になっていた。アートと環境を視点に置いて様々な現代美術作家との展開を試みていたP3では、『SURVIVAL GUIDE』で知られるボスニアのFAMAというアーティストグループをはじめインゴ・ギュンター、蔡國強などと画期的な展覧会企画を行っていた。
忍さんとはプライベートで頻繁に遊ぶことはあまりない。けれども、時おり会って話しをすると、その間の空白は不思議と何もなかったかのように自然と打ち解けて、話し合える大切な友人のひとりだ。多忙で、しっかりとアートマネージメントの仕事をしていて、どこにも角がなく、本当に素敵な女性だ。忍さんに会うと、「慌てない、焦らない」っとゆったりしたマイペースを取り戻せたりする。今、私は仕事がピーク状態なのに、なぜか、忍さんにどうしても会いたくて、今日はそれが叶ってとても嬉しかった。そして、なぜそんなに「今」会いたかったのか話しをしているうちにわかってくるのだった。

今まで、お互いの家族の話などした事がなかったが、今日は、忍さんのお母さんが秋田の出身で、家庭科の先生をやっていたことを聞きいた。秋田と聞いただけで、私の頭の中には豊かな食文化圏が浮かび、秋田の白玉粉の話しやパンを焼く時の粉の話しをした。家庭科の先生だったお母さんは食べ物に関してとてもうるさかったという。それは決して洒落た食事ではなくて、体と心にバランスを保つ栄養をよく気をつけてくれた真心が感じられるいい話しだった。なるほど、こうして食べ物に気をつけて育てられた忍さんだから、どこか和む温かさがあるのだなと感じたのだ。
それから話題は少しP3のことになった。P3には、秘物が置かれている。ジョージ・ダイソンのバイダルカが数隻眠っているのだ。このバイダルカ、もともとは人さまからのお預かりものだったそうだが、所有がこの度P3に渡ったそうだ。何度か見せて頂いたことのある美しい船だ。これで、海にぽっかりと浮かぶことができたら、自分はきっと地球の母胎の中にいると感じるはず。そして、幻とも言われるバイダルカを現在売りに出している。忍さんは、本当に使ってくれる人のもとにこのバイダルカが渡ってくれると嬉しいと話していた。ミクロネシアでスターナビゲーションを学んだ石川直樹さんが、もしかするとバンクーバー島の南端からアラスカのグレイシャー湾に至る「沿岸水路」の海域を、このどれかのバイダルカで渡るかもしれないと話していた。そんなことが実現したら、私はその旅の記録を是非、読んでみたいと思う。バイダルカについて詳しくお知りになりたい方はP3代表の芹沢高志さんが翻訳をされた『宇宙船とカヌー』(ケネス・ブラウワー著、ちくま文庫)をお読みいただくと面白いと思う。そして、もちろん最近新しくなったP3のサイトもご覧下さい。バイダルカは当初、130万円ほどで販売をする予定だったようだが、P3では信じられないほどの価格での販売が可能なよう。
このあとはひとしきり私の養蜂園観察の話しを聞いてもらい、現代社会では見えにくくなってしまったり、封じられてしまった自然界の人間の感覚や感性、身体機能などの話しに盛り上がった。
忍さんには遠野で田舎暮らしをしている友人がいる。質実剛健な生活をしているという。早池峰山を目の前に広がる田畑にポニーがゆったり歩いて、老人が朝から日が暮れるまで、草取りをしている牧歌的な風景に心を打たれたという。きれいだ、美しいということだけではなくて、何でもないような風景の中に自給自足をまかなうための家族や家畜の役割があって自然の営みに融合しているのだと。
「みつばこちゃんもみつばちを飼いに遠野に行く?」っと忍さんにさそわれて、とても行きたいと思っている。それほど遠くならない日に遠野を訪れる機会があるような気がしている。
こうして、忍さんと話した後の私はなんとも言えない豊かな心持ちになって元気に月の夜道を歩いて帰っていった。切手の写真は、2年前に忍さんがブータンの旅をした時に頂いたおみやげだ。

わたしが岩手にふたたび出かけるひとつのきっかけは、こんなおしゃべりからはじまった…。

posted: mitsubako: on 09:36AM | comments (4)

2005年11月10日

ローカル線のプチたび

PB050068.jpg冬の到来の前に晩秋のプチたびをしたいと頭に思い浮かべているけれど、なかなかプランが実現しない。どこへ?というのもだいたい決まってはいない。でも、できれば、ローカル線を乗り継いだたびをしたい。ローカル線は落ちつくし、懐かしさもあるし、小さな駅のはらっぱとかも魅力だから。
ローカル線というとすぐ東北を思い浮かべてしまう。岩手は紅葉の時期も過ぎて、ガラスに霜がはりつく季節を迎えたようだ。これからがまた一段と美しいときなのだろう。今、青く光沢のある表紙に朱色で『光太郎智恵子』とかかれた書簡を読んでいる。ここには人を思いやる心づかい、繊細な心がちりばめられている。ていねいに、人に伝える心が見えてくる。速攻は時として重要だけれどたびとか人の心は時をかけて、いちいちていねいにかかわっていきたい。見えていない時とか、通り過ぎた街角とかをゆっくり記憶の中で覚えておきたい。
さて、いったい、いつどこへいくんだか…まだわたしも知らない。

posted: mitsubako: on 07:33AM

2005年11月09日

収穫期

PB050065.jpg「笑わないでください。写真は収穫した稲です。」一昨年初めて稲の収穫を自分でした時の第一声だった。今年は、友人のm-louisさんからわたしたちが活動をいろいろした広島の地、灰塚の苗もいただき、3つの小箱たんぼで稲を育てた。育てたというほどのことはしていなくて、太陽の光と、雨水と風が見守ってくれたおかげで昨年より少しだけ多く収穫ができた。記録は、パブリッシュが壊れてしまったblogのアーカイブに残されているのでそのうちに、journalへまとめようと思う。いつになることやら…。
秋の実りは、近所の庭先の樹木や草むらの中と気づけばたくさんある。艶やかな赤い実をつけるものもあれば、地味でそっとしているものもある。種を運んでくれるご希望の媒介者たちによって色も形も変えて「連れていっておくれ」と待ちのぞんでいるのだろうか…。わたしが小さいころ、秋になると裏山のしいの木に実がなって、家の古いトタン屋根の物置小屋にコン、カラカラカラと音をたてて降ってきた。夜、眠りにつく前にそんな響きを耳にしてイマジネーションをふくらます女の子がいたっけ。
よく横断する近所の道路わきの小屋からここ数日、夜も深まる時刻に渡るタイミングを待つ時間、懐かしい音が聞こえてくる。翌朝、アスファルトにつぶれたどんぐりを見るのは哀しい…。キミたちの旅はここまでだったね…。

posted: mitsubako: on 07:28AM

2005年11月08日

石蕗

PB050039.jpgキク科の多年生常緑草の石蕗(ツワブキ)は江戸のころから人々に親しまれ栽培されてきたそうだ。ちょっとした野山へ行けば木陰にすっと自生をしている。先日近くの園芸店でふた株買ってきて植えた。以前にあったはずなのに、なくなってしまったからだ。どうして植えたのかといえば、養蜂家が「冬は花が少ない時だから…」といつか話してくれたことを覚えていて、冬の間も花を咲かせている石蕗をせめてでもいい、もしかしたら訪れてくれるかもしれないみつばちのために植えておいてあげたいと思った。
晴れた日の朝、川村記念美術館へはるばる足を運んだ。美術館の周りにある散策路には群生になって石蕗の花が咲いていてミツバチによくにたハナアブが蜜を集めにやって来ていた。
花が咲いたら、やって来てくれるかな、近所のみつばち……。今から晴れ間の冬のころが待ち遠しい。思えば、初めて養蜂園を訪れたのも昨年の11月だった。1年目の記念の花にしよう。

posted: mitsubako: on 07:21AM

2005年11月07日

ガラス板 G.リヒター展

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2001年の春、ATLASと題されたゲルハルト・リヒター展を見てからもう4年の歳月が過ぎた。そして11月3日からまた同じ佐倉市にある川村記念美術館で主に彼のフォト・ペインティングなどを集めた展覧会が開催されている。
わたしはとても待っていたもののひとつで、金沢を巡回している時に、実は行こうかとそわそわしていたぐらいだった。ATLASでは多くの写真を見て、今ならまた違った目で見てみたい作品がたくさんだった。撮り続けた写真から絵を描き仕上げに筆で直線だったり、8の字だったりと一定の法則で表面をならしてしまうこの手法。ここにぼんやりとしたランドスケープだったり静物が表現される。数ヶ月前からピンホールとデジタルカメラの両方を楽しみはじめていて彼の絵画はまるでピンホール撮影のようだと感じた。どこにも焦点があっていないようでいて、あたりの空気をのみこんでしまうぶれたピンホールの写真。巧みな効果をねらうというよりは、感を信じて撮るようなところに一種のおもしろみを覚えている。彼が描いたものをある意味で均質にしてしまうところに、とらえどころのなさ、見ている現実に対する真実性、主体を特化させない、もしかしたら主体を消費化させない抵抗とでもいうのか、その姿勢に深く共感してしまう。
今回、もうひとつわたしの心をとらえたのは大きなガラス板だった。たった1枚のガラスは透明であたかも向こう側へ通り抜けられそうな錯覚をおこす。けれど冷たい物質で、そこを通ることはできない。リヒターは鏡を素材にしていることもあるが、「鏡はあまりに映し出すものが似すぎている…」といっている。ガラス板が何層もに重なるとやがて透明と思っていた現実も不透明になっていく。ガラス板とはかのレディメイドから連続する彼の表現の側面をあらわす存在なのだろうか。ガラスの透明性には心を奪われるのだ。
リヒター展のカタログからは、ひっぱりだしたいことばがいくつもある。あえて、このことばをここに記録しておこうと思う。
リヒターのノートから
「もはやなに一つ可能なものはない、ユートピアは犯罪ではないとしても無意味なのだ、というような悲観的見解を私はつねにもっていた。こういう『心理構造』から、フォト・ペインティング、色パネル、グレイ・ペインティングができた。それでも、頭のどこかでは、ユートピア、意味、未来、希望が表れることを信じていた。いわば、ひそかに、知らぬまにそこにあるようなものとして」
73歳の彼は、自分の作品を自分ですべて知りつくしてやっている行為とは思えないと語る……。
*写真をどれにするかはとても困惑した。この日初めて使用した「くま35」のピンホールで初のショットといつの日かの雲の撮影をあわせてみた。

posted: mitsubako: on 07:18AM

2005年11月04日

朱色のゴム長ぐつ

R0010007.jpg昨年の今ごろ、朱色のゴム長ぐつが欲しくてこんなことを書いていたのだなとあらためて笑みを浮かべてしまいます。そのお気に入りの長ぐつを買いました。養蜂園に何度かそれを履いて出かけたり、雪の日の公園を歩いたり、今年の夏は何度となく水まきで活躍しました。年季がはいって自分にしっくりくるまでどのぐらいの月日がかかるのでしょうか。

2004年の9月のはじめ頃、街中で朱色のひざ下まである長ぐつを見つけました。今日は、いよいよそれを買いに行こうとお店に行ったのですが……、

店員さんに「すみません、もう売り切れてしまいました。」と言われました。たぶん、Scotland製のものだったと記憶しています。オリーブ色とか黄色の長ぐつはよく見かけるのですが、朱というのは珍しいなと思いましたし、だいたい見ていてとても明るくて楽しい気持ちで仕事ができそうだと思ったので、次の機会にでも買おうとしていたのです。物を買うとき、瞬間的にどうしてもこれが欲しいという時と、少しづつ気持ちが向いて行く時とあります。長ぐつは、はける日の楽しみを温めていたのですが、品物の流通がスピーディな東京で残っているわけがなかったと、あらためて残念でなりませんでした。朱色のゴム長ぐつで麦踏みをしたかったし、近隣の田んぼへも田植えの手伝いをしに行ってみたかったのに、、、っと後から後から頭の中でぐるぐるとイメージがわいて来るのです。そんなモノにこだわってもどおって事はないのですが、なぜか時々どうしてもそれがいい時があるのです。大げさですが一生はき続けてみたかったのです。
そうして長ぐつを買うはずだった私は、本屋へ立ち寄って猪熊弦一郎さんが特集されていた小さな冊子“いろは”の3号と“ハチがいる!”を買って帰りました。猪熊さんはまだ生きていらした頃に講演を聞きに行きました。その頃は80歳後半で、お元気でピンクのシャツ姿で小磯良平の話をされたのですが、ユーモラスで前向きで本当に素敵な人でした。歳をとっても明るい色を好むのはいいですね。
もう何十年も前になりますが、まだ短大を卒業して青くさい頃の私は、猪熊さんが表紙を描かれた小さな月刊誌に文章を書かせて頂いていたことがあります。今思えば、恥ずかしくなるような内容を掲載できたのも、若気のいたりであったと思えます。尖っていた頃の懐かしい思い出がよみがえると同時に、心は鋭くはありたいけれど穏やかに猪熊さんのように快活に、歳を重ねられたらなと思います。きっとその頃、朱色の長ぐつをはきながら草や木に囲まれていることを夢みながら。

posted: mitsubako: on 07:34AM | comments (2)

2005年11月02日

born into this

BUKOWSKI: OLD PUNKを見た。
『亀も空を飛ぶ』を見たときの予告で、見ておきたいなと思ったからだ。
ものすごく彼が好きなわけではないけれどシンプルな言葉に魅力があると思っていた。

サンフランシスコにいた頃のことがフィルムのシーンと二重写しになって、どうでもいい妙なところでぐっときたりしていた。
東海岸から渡って来た、ロブはいい声をしていた。MISHIMA文学が好きな彼は、少し日本人びいきでヘタな会話に付き合ってくれた。メガネをかけたボブは典型的な理論好きのアメリカンボーイ。このふたりがなぜかあるお店で夜に開くreadingの会にさそってくれた。「行きたいけど、わたしじゃ朗読が理解できないと思う。」とこたえると「そんなことはどうだっていいんだ。僕らの空気を味わえよ。サンフランシスコなんだから。」
当時、若者たちは、ボロボロの服を着て、未来の詩人や文学を夢みて閉店後の店を借りて人を集めて自分の作品を発表していた。いまなら、この一見どこか退廃したムードの中でアングラっぽく声をあげる若者たちのやっていたことが理解できる気がする。
敬虔な信者じゃないけれど、ジューイッシュであることを誇りにしているダグはフィルムメイキングを目指していた。「その青いタートルで、こんばんシーンをみんなで撮るから来てくれないか…。」わたしはいつのまにかこういう空気の中にのまれていっていろんな活動や行動をした。毎日がアクティブなアートだったし、幸せだった。
メインストリームで名声をあげることが目的ではない。自分の今ある場で今の自分を表現すること。何かを待っていないで、思うこと、考えることを自分からつくりだすこと。そういう精神に目覚めさせてくれたのがこの仲間たちだった。nice buddy!

BUKOWSKIの詩はまさにライブなサンフランシスコで味わったことを、アイロニーとか鋭さとか、ばかっぽさとかで吹き飛ばす力がある。情けないくらいの気持ちにさせる。長年続けた郵便局員、息子と父、ドイツ系の血…作品のあちこちに戒律と十字架が見える。

死をもって初めて昇華したことばは多くはなくていい。
ミニチュアールのあのことばの1冊さえあればそれでいいじゃないか……。
このままそっとしておきたい詩人だと思った。

posted: mitsubako: on 07:31AM

2005年11月01日

新聞の切り抜き

PA290017.jpg先週、姉から新聞の切り抜きが送られてきた。
韓国の大邱(DAEGU)に地下鉄が開通。その式典のイベントに養蜂家が呼ばれたそうだ。パフォーマンスで体中をミツバチで覆って登場したらしい。
ヨーロッパではこういう人をたくさん見るけれど、おそらく養蜂の父とも呼ばれる
L.E.Snelgove氏が書いた『Swarming, its control and prevention』のカバーページの影響なのかもしれない。
わたしは、百済の太子余豊璋が奈良の三輪山に蜂を放った…を思い出した。





posted: mitsubako: on 07:28AM