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2005年11月07日
ガラス板 G.リヒター展

2001年の春、ATLASと題されたゲルハルト・リヒター展を見てからもう4年の歳月が過ぎた。そして11月3日からまた同じ佐倉市にある川村記念美術館で主に彼のフォト・ペインティングなどを集めた展覧会が開催されている。
わたしはとても待っていたもののひとつで、金沢を巡回している時に、実は行こうかとそわそわしていたぐらいだった。ATLASでは多くの写真を見て、今ならまた違った目で見てみたい作品がたくさんだった。撮り続けた写真から絵を描き仕上げに筆で直線だったり、8の字だったりと一定の法則で表面をならしてしまうこの手法。ここにぼんやりとしたランドスケープだったり静物が表現される。数ヶ月前からピンホールとデジタルカメラの両方を楽しみはじめていて彼の絵画はまるでピンホール撮影のようだと感じた。どこにも焦点があっていないようでいて、あたりの空気をのみこんでしまうぶれたピンホールの写真。巧みな効果をねらうというよりは、感を信じて撮るようなところに一種のおもしろみを覚えている。彼が描いたものをある意味で均質にしてしまうところに、とらえどころのなさ、見ている現実に対する真実性、主体を特化させない、もしかしたら主体を消費化させない抵抗とでもいうのか、その姿勢に深く共感してしまう。
今回、もうひとつわたしの心をとらえたのは大きなガラス板だった。たった1枚のガラスは透明であたかも向こう側へ通り抜けられそうな錯覚をおこす。けれど冷たい物質で、そこを通ることはできない。リヒターは鏡を素材にしていることもあるが、「鏡はあまりに映し出すものが似すぎている…」といっている。ガラス板が何層もに重なるとやがて透明と思っていた現実も不透明になっていく。ガラス板とはかのレディメイドから連続する彼の表現の側面をあらわす存在なのだろうか。ガラスの透明性には心を奪われるのだ。
リヒター展のカタログからは、ひっぱりだしたいことばがいくつもある。あえて、このことばをここに記録しておこうと思う。
リヒターのノートから
「もはやなに一つ可能なものはない、ユートピアは犯罪ではないとしても無意味なのだ、というような悲観的見解を私はつねにもっていた。こういう『心理構造』から、フォト・ペインティング、色パネル、グレイ・ペインティングができた。それでも、頭のどこかでは、ユートピア、意味、未来、希望が表れることを信じていた。いわば、ひそかに、知らぬまにそこにあるようなものとして」
73歳の彼は、自分の作品を自分ですべて知りつくしてやっている行為とは思えないと語る……。
*写真をどれにするかはとても困惑した。この日初めて使用した「くま35」のピンホールで初のショットといつの日かの雲の撮影をあわせてみた。
posted: mitsubako at <07:18AM>