« ヨゼフ・ボイスからのはがき | « Go to main page | 豊田正夫さんの器 »

2005年02月10日

手紙

RIMG2176.jpgこれは故松尾則民の写真だ。松尾則民とは、私の亡くなった祖父のことだ。
祖父は、特に何かをした人ではないが、その時代を凝視しながら、手紙を書いて生きた人だった。私は、この祖父とは、2歳になる時までしか、一緒にいられなかった。だから存在感とか、なんの印象もなく、母や、親類や、母の友人から聞く話しだけで、この祖父という人物を想像している。思い懐かしんだりしている。祖父は、私の幻想だけに今も生きる大事な人だ。長い間、この人に私はずっと興味を抱いていた。
松尾則民は1891年、長崎に生まれる。長崎という土壌がそういう気風だったのか、祖父は若い時からカトリックの影響を強く受けて育った。いずれ、賀川豊彦や内村鑑三に傾倒してプロテスタントになる。やがて、滋賀県、近江八幡で育った祖母と出会い結婚。兵役を逃れるために満州へ渡った。鴨緑江株本公司で会計課と中国語翻訳の仕事をしていたらしい。私の母はその間、1933年に満州で誕生する。たった13年5カ月あまりで消滅した国で生まれた稀少な子どもだ。
満州から引き上げた祖父はその後、北鎌倉の山ノ内に家を建てる。南向きに開けた陽当たりの良い、和洋折衷の家であった。(現在もうこの家屋は取り壊されて、ただの荒れ地と化している)この一軒屋の建築は、当時近江に腰をすえ、日本の近代化に力を注いだ人物、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの一粒柳建築事務所に依頼をした。だから「ヴォーリズさん」という名は私が幼少の頃から耳にしていた名前だった。

30歳も近くなろうとした頃から、私は自分探しをはじめた。誰にだって、そういう時があると思う。迷ったり、自分は何なんだろうと思いはじめると、まず過去を振り返ったりするだろう。そうして私のルーツを探りたくなった。私がどういう民族なのか、とういうアイデンティティ探しとは、違うけれど、どうしてこういうことに惹かれる自分が在るのか、時々知りたくなる。
私は親類の家を尋ねると、祖父の話をしつこく聞いたり、祖父の書いたものを預かるようになっていった。祖父は、生真面目でよく手紙を書く人であった。結婚をして嫁いでいった娘宛、友人宛であったり、時には、作家だったりしたという。与謝野晶子に手紙を出したという話しは、今でも松尾家で語りぐさにされている。私は、このちょっと大胆で風変わりな生き様の祖父が、どんなことを考えて生きていたのか無性に知りたくて、預かった手紙を読むようになった。
「数学と語学を勉強せよ」「女性も社会で仕事を持て」「パンは黒パン」「砂糖も黒砂糖」「甘いものは最小限度」といったようなことを細かく書き綴っている。祖父は孫の私たちに「おじいちゃん」と呼ばせるのが嫌いだった。だから手紙にも「グランパ」とカタカナで書いてある。
北鎌倉に越してからの祖父は、株を少々やりながら、仕事もせず、好きな本を読み、手紙を書き、石を集め、漢詩を読み、盆栽にふけり、写真をとり、好きなことばかりして暮らしていたという。戦後の食料難の中、7人の子どもを抱える一家の暮らし向きは決して良くなかった。祖母は黙って、庭に菜園を作って食べることを支えていたと母は回想する。社会の理想や思想ばかり言う祖父の生き方に、当時の家族は生きることに精一杯で、なかなか耳を傾けなかったという。
その日をどう暮らすか。衣食住に追われて、それをなんとかするのも生き方だ。衣食住をかまわず、夢想にふけるのも生き方だ。どちらにしても、人はなんとか生きていける、そんな時代であったのかもしれない。どちらも、なくては生きられないことだとも思える。
祖父の書きためた手紙は、時間を経て私が譲り受けた時、そこに広がる、ある宇宙観が、一つひとつ貴重で、今の私にありがたいことばとなっている。どんな文学よりも、ここに残された記録は故人のかけがえのない、未来へのメッセージとしてある特定の人に意味をなしている。
私は、何かのてがかりを求めて、今、近江八幡へ行こうしている。

posted: mitsubako at <19:59PM>