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2005年02月28日
mobile linear city
ここは、誰のものだ。
公園を横切って帰るときに思うことがある。ビルの広場で煙草をふかしている人を見るときふっと思うことがある。
私のものではないけれど、私が通ることができて、入ることができる。
mobile linear cityはスペースに対する考え方を投げかけてくれた作品のひとつとして、初めてカタログで見た時、衝撃的だった。
かつての、モダンダンスの主宰はこういったことがある。
「いい?日本の踊りは土の上に立つ、歩きは土をつかむんだよ。大地とどう向き合うかなんだ。西欧の踊りはいかにして弧を描いて空気を自分のものに取りこむか、空気。空気なんだよ」。
人間の育った環境によって、空間の感じかたや空間を表現するアイディアは似ていたり、まるで異なっていたりする。だから異なった解釈に出会ったとき、戸惑いもあるけど、ひとつ大人になったぐらいの大きな発見だったりもする。
性格のあまりない都市に暮らしていると、どんなに意識を持っていたとしても、人は知らず知らずのうちに、都市空間に呑み込まれていく。
自分の空間と公共の空間が当たりまえのように存在していると思ってしまう。もし、街がコンパクトにたためて、持ち運びができたとしたら、街って一体なんなんだろう。建物が建ち並び、人が集中し、車が右往左往する都市の象徴みたいなものが、くつがえされたりする。公共の空間として誰かが管理していた場所が、そうでもないような場に見えてくる。
ヴィト・アコンチという作家は、シニカルな味をそえながらも、社会に対して挑発的な展開をこころみる。ある時代の彼の作品は私にとってのスーパースターだった。
固定や安定は予想を生み出す。流動や変化は再生をうながす。循環する点はどこかに必ずあるはず。
追記:今日はどうしてもこのことを書きたかった……
posted: mitsubako: on 14:18PM
2005年02月26日
豊田正夫さんの器

豊田さんの湯飲みで番茶を飲んでいたら、ふっとそのぬくもりに、お元気だろうかと思い出した。もう、確かお会いした時から5年ぐらいの月日が経っている。私は、海外から来たお客さまをつれて、濱田庄司さんの民藝の精神を凝縮した益子記念館へ行った。春霞の頃の美しい時期だった。つれの人は、陶芸を趣味で長年やられている方だが、化学的な方法や、西欧の陶芸の手法だったので、私はどちらかというと、民藝を見せたいと思った。参考館の作品や釜に触れて、まる1日を興味深げにそこですごした後、参考館の方のご厚意で、「もし、濱田先生(息子さんだ)がいらしたら、ちょっと声をかけて、アトリエの方へもどうぞ。」と言ってくれた。こんな機会はきっとまたとないと思い、思いきって、お隣の濱田先生宅に厚かましく呼び鈴を押してご挨拶に行った。ちょうど、先生がご在宅で「あー、どうぞ。見て行ってください。」と気軽におっしゃってくれた。私たちは、器を作っているところへ通されて、そこで初めて豊田さんという職人に出会った。
豊田さんは13歳の時から濱田工房へ入られて、もう何十年と益子焼きの職人としてここで仕事をされている。小柄なお爺ちゃんだ。自然のものを使用する釉薬のことを、話してくれた。唐津の釉薬との混合や、籾殻を使用すること、蒔に使う原木のこと、それはそれは熱を込めて夢中で話してくれた。
豊田さんは最後に「あんたの住所を教えてくれれば、焼き上がった時に、ひとつ贈りますよ。」と言ってくれた。それから半年後、本当に豊田さんから湯飲みと器が贈られて来た。私は、これを一生大事に使いたいと思い、毎日、日々の生活で使って、使って、使いまくっている。
民藝には制作者は記されない。これこそ本物だと教えられた大事な器だ。
posted: mitsubako: on 14:08PM
2005年02月10日
手紙
これは故松尾則民の写真だ。松尾則民とは、私の亡くなった祖父のことだ。
祖父は、特に何かをした人ではないが、その時代を凝視しながら、手紙を書いて生きた人だった。私は、この祖父とは、2歳になる時までしか、一緒にいられなかった。だから存在感とか、なんの印象もなく、母や、親類や、母の友人から聞く話しだけで、この祖父という人物を想像している。思い懐かしんだりしている。祖父は、私の幻想だけに今も生きる大事な人だ。長い間、この人に私はずっと興味を抱いていた。
松尾則民は1891年、長崎に生まれる。長崎という土壌がそういう気風だったのか、祖父は若い時からカトリックの影響を強く受けて育った。いずれ、賀川豊彦や内村鑑三に傾倒してプロテスタントになる。やがて、滋賀県、近江八幡で育った祖母と出会い結婚。兵役を逃れるために満州へ渡った。鴨緑江株本公司で会計課と中国語翻訳の仕事をしていたらしい。私の母はその間、1933年に満州で誕生する。たった13年5カ月あまりで消滅した国で生まれた稀少な子どもだ。
満州から引き上げた祖父はその後、北鎌倉の山ノ内に家を建てる。南向きに開けた陽当たりの良い、和洋折衷の家であった。(現在もうこの家屋は取り壊されて、ただの荒れ地と化している)この一軒屋の建築は、当時近江に腰をすえ、日本の近代化に力を注いだ人物、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの一粒柳建築事務所に依頼をした。だから「ヴォーリズさん」という名は私が幼少の頃から耳にしていた名前だった。
30歳も近くなろうとした頃から、私は自分探しをはじめた。誰にだって、そういう時があると思う。迷ったり、自分は何なんだろうと思いはじめると、まず過去を振り返ったりするだろう。そうして私のルーツを探りたくなった。私がどういう民族なのか、とういうアイデンティティ探しとは、違うけれど、どうしてこういうことに惹かれる自分が在るのか、時々知りたくなる。
私は親類の家を尋ねると、祖父の話をしつこく聞いたり、祖父の書いたものを預かるようになっていった。祖父は、生真面目でよく手紙を書く人であった。結婚をして嫁いでいった娘宛、友人宛であったり、時には、作家だったりしたという。与謝野晶子に手紙を出したという話しは、今でも松尾家で語りぐさにされている。私は、このちょっと大胆で風変わりな生き様の祖父が、どんなことを考えて生きていたのか無性に知りたくて、預かった手紙を読むようになった。
「数学と語学を勉強せよ」「女性も社会で仕事を持て」「パンは黒パン」「砂糖も黒砂糖」「甘いものは最小限度」といったようなことを細かく書き綴っている。祖父は孫の私たちに「おじいちゃん」と呼ばせるのが嫌いだった。だから手紙にも「グランパ」とカタカナで書いてある。
北鎌倉に越してからの祖父は、株を少々やりながら、仕事もせず、好きな本を読み、手紙を書き、石を集め、漢詩を読み、盆栽にふけり、写真をとり、好きなことばかりして暮らしていたという。戦後の食料難の中、7人の子どもを抱える一家の暮らし向きは決して良くなかった。祖母は黙って、庭に菜園を作って食べることを支えていたと母は回想する。社会の理想や思想ばかり言う祖父の生き方に、当時の家族は生きることに精一杯で、なかなか耳を傾けなかったという。
その日をどう暮らすか。衣食住に追われて、それをなんとかするのも生き方だ。衣食住をかまわず、夢想にふけるのも生き方だ。どちらにしても、人はなんとか生きていける、そんな時代であったのかもしれない。どちらも、なくては生きられないことだとも思える。
祖父の書きためた手紙は、時間を経て私が譲り受けた時、そこに広がる、ある宇宙観が、一つひとつ貴重で、今の私にありがたいことばとなっている。どんな文学よりも、ここに残された記録は故人のかけがえのない、未来へのメッセージとしてある特定の人に意味をなしている。
私は、何かのてがかりを求めて、今、近江八幡へ行こうしている。
posted: mitsubako: on 19:59PM
2005年02月06日
ヨゼフ・ボイスからのはがき

ヨーゼフ・ボイスは20世紀を代表する芸術家のひとりと言っても過言ではない。
そのアクティブな精神は、現代美術という領域を越えて社会や環境にも大きな刺激を与えた。
「草の根っこ」というカテゴリーを少し前から追加した。これは、私が影響を受けた人や作品について、少しばかりここに記しておこうと思うからだ。養蜂という世界とはまったく無縁と思われるようなところで生きて来たのに、なぜそんなにそのことが、私の中で今大事なのかということをランダムにでもいい、書きとめておきたい。これからどういう方向に、どんな風に歩もうか、反復しながら考えて行きたいからだ。そうでもしないと、ただ、時ばかり過ぎて、終わってしまう。この頃そんな気持ちに無性にかられる。“何かを残したい”というのでは決してないのだけれど、日々の生活の小さな営みの中に、ただ、そうした気持ちを持ち続けて生きていきたいからだ。
ボイスは1921年にドイツで生まれた。戦時中は空軍のパイロットに入隊をし、戦後デュッセルドルフの美術学校で彫刻を学んだ。美術の枠を越えた自由国際大学、社会彫刻といった活動を展開。1986年デュッセルドルフにて没。
彼の作品には兎、コヨーテ、脂肪、蜜蝋、銅、フェルトといったものが繰り返しもちいられる。戦争中に体験した出来事に象徴される物質であったと自ら語ったモノたちだ。
ボイスのアクションの中から…
1965/死んだウサギに絵を説明するには
ボイスのトレードマークのフェルト帽を脱ぎ、漁師のベストにジーンズ姿で死んだ兎を抱きかかえて、ギャラリー内に腰しかけた。
1974/コヨーテ 私はアメリカが好き、アメリカも私が好き
ボイスは、アメリカの空港に到着すると、直ちにフェルトに包まれて、ギャラリーに運ばれた。そしてギャラリーの一室で、1匹のコヨーテと3日間共同生活をした。
1982/7000本の樫の木プロジェクト
ドクメンタ7の開催から5年間に渡り、カッセル市内に7000本の樫の木を植えるプロジェクト。苗木にそえて、柱状の玄武岩をランダムに配置した。多くの市民を巻き込んで行われた。樫の木は、バスク地方ゲルニカの聖樹でもある。
美術館や画廊というある特定の作品を人に鑑賞してもらうスタイルをとらない作品展開が私は全般に好きだ。ボイスやタレル、まだこの他にもこうした活動をした作家はたくさんいる。
ボイスが私たちに投げかけたスピリットは、芸術とは、もはや誰か特別な人が特別な才能を見せるための行為ではない。誰もが芸術家であるということだ。必ずしも、絵画や彫刻といった形式をとらないところにも作品は生まれてくる。たとえば、料理を作る中にも、土に触れて作物を育てる中にも、みつばちを飼う中にも、オフロードバイクで砂漠を駆け抜ける中にも、トラックで巡回をする古本屋の中にも……。
それじゃあ、私がただ、郵便局に行くのに自転車が必要でそれに乗るのも芸術かというと、それは違う。その境目とはなんだろう。ある瞬間から芸術になる「それ」を私は探している。これは、難しいことではないような気がするけれど、あまり意識的にでもなく、かといって無意識ではないところで誕生しているような気がする。
ビオファームのまつきさんが、1/31日の農人日記「Aさんのこと」に、それに近いことを書いているように思う。彼は、代々受け継がれてきた農人のDNAと表現していた。ただ、それは生まれたときから運命ずけられていると考えると希望がない。人はいつでも生まれ変われる力を自然から与えられるとおもえば少しは希望の光が見えてくる。
ボイスが、影響を受けた人にルドルフ・シュタイナーがいる。シュタイナーが提唱した教育は、幼少期から遊ぶ素材に本物に触れさせる。あまりに純粋性を求めすぎて、そこに排除してしまうものがあるような気もするが、この教育でおもしろいのは、教科書がないことだ。学校で授業を受けたときに自分で自分のノート(教科書)を作っていく過程だ。
みつばちのことを考察するには、誰から、何を、どういう風に勉強すれば学べるという道筋はない。昆虫学として学ぶのならまだしも、養蜂を学ぶには、家が代々養蜂家なら話は別だけど、そうでない場合はほとんど、本とか自分で飼いながら知って究めていくほかないだろう。自分で自らのノートを作っていくしか、これといった道筋はない。
今日書いたことが、ボイスから送られたはがきに込められたメッセージだと自分に言いたい。思わせたい。
*写真のはがきは、もちろんボイスから送られたものではない。ギャラリー360°で、ボイスの精神を忘れないようにと以前に自分に買ったものだ。
ボイスの活動については、私のことばでは伝えきれない。たくさんの書籍に記されているのでそちらを是非お読みいただきたい。
posted: mitsubako: on 14:17PM
2005年02月05日
地球はまあるい
今日のことを書こうと思っていたら、時計はもうすっかり12時を過ぎて昨日のことになってしまう。時間はちっとも待っていてくれない。朝、起きてカーテンを開けると、射し込む朝日が、「春だな」と感じた。そう思うと、少し寒いけれど東、西、南、北、部屋の窓を全開にして、風の通り道をつくった。なんだか、急に掃除をしたくなる。掃除をすると、すっかり気持ちも一掃されて爽快だ。時計を見ると、もう出かけなければならなかった。今日は四谷のギャラリーで、『地球はまあるい』の翻訳者ぱくきょんみさんが朗読をすることを知って、友人の大鹿知子さんと待ち合わせをした。
この催しを知ったのはまったくの偶然だった。私は、一昨日、山形の農村地で農業を営みながら詩人である木村迪夫さんの朗読CD『まぎれ野へ』が欲しくて、水牛通信のサイトにアクセスをしていた。そこで、たまたま、今日のことを知ったのだった。nameというタイトルでガートルード・スタインの一文を引用したばかりだったし、本を読み返したばかりだったので、この巡り合わせをとても嬉しく思った。
会は、高橋悠治さんのゼミが主体で、ガートルード・スタインをテーマにやってきたことを、朗読、音、サンプリング、ライブパフォーマンスなどで数名の方々が発表をした。
ぱくさんはゲスト出演だと思うけれど、彼女を中心に3人の女性と、2人の男性の混声で朗読が行われた。お話は淡々と読みすすめられた。声に出して読むというのは、活字を目で追って読むこととはまるで違う体験と発見がある。
ぱくさんは、朗読の前に「数少ない語彙で、ローズが発見していくことをあらわしている」と語っていた。私は、私が私であることを発見する始まりって、自分の名前を知ることから始まる旅だと思っていたけれど、ローズの知るかぎりのことばで世界を順に再確認していくうちに、もっと大きな世界に気づいたってことなのかなと今日、新たに感じた。
ところで、木村さんのCDのことは、すぐに書けないけれど、この詩集の中に、昨年どうしても見たいと思っていた、故小川紳介監督の追悼の詩を見つけて、この偶然にも、はっとした。小川紳介監督のフィルムはまだ一度も見たことがない。『満山紅柿』がとても見てみたい。
追記:この日大鹿さんは皮の手袋を片方だけなくした。
posted: mitsubako: on 14:11PM
2005年02月04日
庭園
私は、田畑だったり、果樹園だったり、ある意味、人間が手を入れた環境というものにも関心がある。以前、ここでアースワークのことを書いたけれど、私がお世話になった広島県の灰塚の近郊は果実の宝庫だ。三良坂という町ではピオーネというぶどうの種の栽培が盛んでとてもおいしい。世羅という地域では、梨の栽培が盛んだ。そんなところで少しだけ滞在をしたせいか、農という作業を行う人々に敬意と、そして時としてそこに芸術的なものさえ感じることがある。それは誰でもというわけではない。ごく少数だけれどそういう風に思える瞬間がある。
1997年に開催されたミュンスター彫刻プロジェクト展に、スイスの作家ペーター・フィッシュリ・アンド・ダヴィッド・ヴァイスは「庭園」という作品を制作した。以前は動物の形をした植木が植えられた装飾庭園だった土地。時間と共に誰も手入れをしない「そこ」は荒れ地と化した。フィッシュリ&ヴァイスはその土地の持ち主に依頼して、約半年前から、土地を耕し花と野菜の混菜の庭園を復活させた。実際にこの作品をこの機会に見に行くことはできなかったのだが、写真やビデオで見て、心に残る作品の一つとなった。このイデーは、土と関わる仕事をしている人と出会うたびに私の中に蘇ってくる。作品とは、必ずしも意識化の中で生まれるとは限らない。むしろ自分が意図もしていない、作品とはかけ離れたところで、こつこつと営んでいる中に生まれていることがある。そうした「気づき」を想起させてくれるのが、こうした作家たちだったりするんだと思う。
posted: mitsubako: on 14:09PM
2005年02月01日
name
Rose was her name and would she have been Rose if her name had not been Rose.
She used to think and then she used to think again.
The World Is Round, by Gertrude Stein
ぼくのなまえはウィリー、ローズにゃ似てないよ
どんなにどうなっちゃったってぼくはウィリーだろうよ
ヘンリーがぼくのなまでもぼくはウィリーだろうよ
ぼくはウィリーだろうよ、いつだってウィリーさ、やっぱりね。
地球はまあるい ガートルード・スタイン
なまえってなんだろう。ちきゅうにあるものは、みんな、みんな
かぞえて、なづけておぼえているってきいたことがあるよ。
祖父の書いたものを読んでいたら、わたしへの命名書というものが出てきた。
書いていてくれたから、思いが残るということもあるけれど、残っちゃ困ることもある。
--歴史は人類の正しい希望の集成である。恒に正しき望によって
宇宙の究極愛の本源たるに向かって光りの歩みを進めよ--祖父より
名づけてくれた『なまえ』のごときの大人にはちっともなれていないけど、確かにいくつかあなたの子どもたちが、父親をけむたいと思っていたようなことを、わたしが受け継いでいることがあると思うよ、天国のおじいちゃんへ。
*命名書を見て、なまえが気になったら、急に『地球はまあるい』を読みたくなった。リズミカルなおはなしだ。
『地球はまあるい』ガートルード・スタイン 訳ぱくきょんみ、装画浜田洋子/岡崎乾二郎
posted: mitsubako: on 19:58PM