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2004年12月19日

たけくらべ

新5000円札を初めて手にしたら、書こうと思っていたことがあります。樋口一葉が新札に登場してから、彼女の再考が目についたり、書店の店頭に小説が並んだりしています。いつの晩だったか、ぼんやりとテレビをつけていると、辻村ジュサブローの人形で「たけくらべ」の再放送が始まっていました。昔に見た記憶があり、懐かしさについ引かれて、とうとう最後まで番組を見てしまいました。幼いのに胸の底がきゅーっとなった記憶は今でも同じように覚えているのです。恋しさは生まれながらに人の心にあるものなのかもしれません。
寺の息子の信如とほのかな思いを寄せ合いながらも美登利とはもう会うこともなく、ふたりはそれぞれの道を生きていきます。恋心だけを照らしてみれば、せつなく、淡い初恋の物語といったところかもしれません。辻村の人形は一見そんな未熟とも思える当時の恋を、静かな時間の流れの中に、情念をこめて思春期の心の痛みや成長を描写していると感じました。新聞のコラムで佐伯順子さんが樋口一葉とマルグリット・デュラスの比較論を「デュラスとの共鳴」として書いていました。映画『ラマン(愛人)』はデュラスの自伝的半身でもあるともいわれる少女がヒロインです。デュラスも一葉も貧困と母娘の普遍的な葛藤が、ただひたすらに書くことへと向かわせるとあります。しかし、その書いた先には屈折した性愛に「わたし」を見いだそうとするデュラスとセクシャリティをかたくななまでに内に秘め、若くして死んでいった一葉を対照的にとらえることができます。
いづれにしても書くという行為によって、それぞれの時代を生きたこの女流作家ふたりに共鳴するものが在ると結んでいます。
いっときは未熟とさえ思えた一葉の「恋いしさ」に、むしろもっといたわりや時代を反映させた、大人びた選択とも今なら解釈できうる私がいることに気づいたりしています。
こんなことを書きながら、私は文楽を一度ある人と見に行ってみたいとこの頃思っています。

posted: mitsubako at <12:11PM>