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2004年12月31日

ある作家の死

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昨日、夕方になってから久しぶりに朝刊を手にしました。すぐ目に飛び込んで来たのが米国の作家スーザン・ソンタグが死去した記事でした。エドワード・サイードが亡くなった時と同様に、あるひとつの思想の時代が終わろうとしていると感じました。なんとなく脱力感にひたりながらも、目頭が熱くなってしまう自分がいました。
ソンタグは、1995年頃だったかに日本に来日をした時、たまたま通っていた仕事先の上司に連れられて、取材の現場に立ち会わされました。強烈なフェミニストと反戦を唱える強い女性像をイメージしていた私を裏切ることのない、力強い姿でサバサバと現れた彼女に圧巻された記憶があります。

それでも、濃い顔立ちに笑顔がやさしく、なにしろ女性としての「存在感」がある。その時から、中身や素の自分を問うきっかけになった、先輩像のひとりになった人です。
私が初めて読んだ彼女の評論は『反解釈』です。当時、現代美術の仲間たちと、あれこれと展開を試みていた活動に、迷いを払底させるような意気込みの批評の数々でした。
「われわれの経験のなかで芸術作品として分類できないような項目が芸術作品の特質をそなえていることもある。言葉や、運動や、行動や、ものが最も直接的で有益で無感覚な表現方法や、存在の仕方から免れているようなとき、われわれはそれらが、<様式>をそなえているとみなし、自律的で模範的だと見ることができる。」
こんな一文のようなことが反復されて、表現できるものと、できないものの狭間に生み出される矛盾から、作品への手がかりを、私に投げかけてくれるものでした。なかでも<キャンプ>についてのノートは時代を感じさせることばではあるけれど、もう一度じっくり読み返して自分をセットアップするのに相応しいと今感じます。
私が痛烈に刺激された本に『隠喩としての病い』があります。自らの癌体験をもとに書かれたともいわれる論評です。生きている環境の中で、私たちはいかに実際に見えているはずのものを捏造し、不要な恐怖感に脅かされているかということです。1990年代のはじめに、サンフランシスコに1年半ばかりぶらぶらとしていた私は、エイズに侵された友人を亡くしたし、帰国してからの友人の中にも癌で若くして亡くなった者もいます。家族や親戚も癌をわずらったし。そんな病いに対する装飾的な要素をいっさい切り落とし、科学的な態度で病理に向かう、そうした指標をここから見いだしたりしました。
「病気が謎めいて見えるのは、もとを糺せばそこに未知の何かがあるように思えるからだが、病気自体(昔なら結核、今なら癌)がまことに古めかしい恐怖心を掻立てるということもある。ひとつの謎として強く恐れられている病気は、現実にはともかく、道徳的な意味で伝染するとされることがある。たとえば、癌にかかってみたら、癌は結核に似た伝染病だと言わんばかりに、親戚や友達からはのけ者にされ、家族からは消毒の必要な人間として扱われたという人々は驚くほど多い。神秘的な悪とされる病気にかかった誰かと接触するのは違反行為であると思ったり、下手をすると、タブーの侵犯になると思ったりするわけである。病名自体が魔力を持つとされることさえある…」
彼女のこうした見方がすべてではないけれど、多かれ少なかれ、その裏側に潜む大きな力に右往左往しない私を、しっかりと支えてくれた作家だと思えてなりません。久しぶりに疎遠になってしまっていた世界に引き戻してくれた、彼女の死に対し、何かメッセージがあるのではないかと、埃をかぶった本をひっぱり出してみるのでした。

posted: mitsubako: on 12:24PM

2004年12月19日

たけくらべ

新5000円札を初めて手にしたら、書こうと思っていたことがあります。樋口一葉が新札に登場してから、彼女の再考が目についたり、書店の店頭に小説が並んだりしています。いつの晩だったか、ぼんやりとテレビをつけていると、辻村ジュサブローの人形で「たけくらべ」の再放送が始まっていました。昔に見た記憶があり、懐かしさについ引かれて、とうとう最後まで番組を見てしまいました。幼いのに胸の底がきゅーっとなった記憶は今でも同じように覚えているのです。恋しさは生まれながらに人の心にあるものなのかもしれません。
寺の息子の信如とほのかな思いを寄せ合いながらも美登利とはもう会うこともなく、ふたりはそれぞれの道を生きていきます。恋心だけを照らしてみれば、せつなく、淡い初恋の物語といったところかもしれません。辻村の人形は一見そんな未熟とも思える当時の恋を、静かな時間の流れの中に、情念をこめて思春期の心の痛みや成長を描写していると感じました。新聞のコラムで佐伯順子さんが樋口一葉とマルグリット・デュラスの比較論を「デュラスとの共鳴」として書いていました。映画『ラマン(愛人)』はデュラスの自伝的半身でもあるともいわれる少女がヒロインです。デュラスも一葉も貧困と母娘の普遍的な葛藤が、ただひたすらに書くことへと向かわせるとあります。しかし、その書いた先には屈折した性愛に「わたし」を見いだそうとするデュラスとセクシャリティをかたくななまでに内に秘め、若くして死んでいった一葉を対照的にとらえることができます。
いづれにしても書くという行為によって、それぞれの時代を生きたこの女流作家ふたりに共鳴するものが在ると結んでいます。
いっときは未熟とさえ思えた一葉の「恋いしさ」に、むしろもっといたわりや時代を反映させた、大人びた選択とも今なら解釈できうる私がいることに気づいたりしています。
こんなことを書きながら、私は文楽を一度ある人と見に行ってみたいとこの頃思っています。

posted: mitsubako: on 12:11PM

2004年12月11日

蜂のこと その30

●蜂と共に暮らすとは
もし、58歳ぐらいまで生きていたとしたら、わたしはどんな暮らし方を選んでいるんだろう。
蜂のことを書いてきてみつばちを見つめる目が少しだけ育ったように思う。何がわかったとか、何ができるようになったということではまるでないけれど、もし、こういう風なことになったら何を探せばいいかという方法とか、質問できる人とかそういうことがいつでも自分の周り在るようになったから。
なぜ58歳なんていう中途半端な年齢を選んだかというと、Max Westbyが今その歳だからというだけだ。人として、養蜂家として今とても信頼し尊敬できる人物だ。
大学の教鞭の職をリタイヤしてからはフランスのバーガンディー地方へ移り住み、エコロジカルな「食・住」を実践しながらミツバチを飼い、ブリキの彫刻家としても第二の人生をはじめているこの人のことを書きたくなった。
バーガンディーはフランスの東部に位置しワインの産地でもある。Maxはもともと神経科学が専門で、長い間ナマズの研究などをしていたらしい。アカシアの樹の下、ブドウが茂る片隅にミツバチの木箱が積み重なって置かれている。養蜂はアマチュアだといいつつも、イギリスの科学系サイトにコラムを投稿する執筆者のひとりだ。
昆虫、植物、いやすべての自然を愛し、人権を守るためのアクションもする。ボランティアでパーキンソン患者を訪問したりそのハートとフットワークには、溢れる何かが輝いている。それでいて、フランスっぽいシニカルで滑稽なおしゃれな初老だと思う。
ある時、彼の飼うミツバチで、羽もちぎれるほどに働いた最期の頃の姿をとらえた写真を見た。とても黒かった。だいたい1カ月前に飛び立った頃の若い時期と比較すると本当に消耗しきった老いた姿だった。
「とても体が黒い」とわたしが反応すると、このミツバチの種固有のものであることを教えてくれた。イギリスのヨークシャーという種類の蜂だった。この種はイタリアンのようにどんどん繁殖をしていかず一定を保つということらしい。わたしはミツバチ科学研究施設の中村先生の話を思い出した。ニホンミツバチは、必要以上に花粉や蜜源を集めてどんどん子どもを増やすことはせず、どんなに花が豊富な好条件でも自分たちの許容範囲をとどめている性格があると。それに比べると西洋ミツバチは、花があれば集められるだけ食糧を集め調子にのって子どもを増やしていっぱいになってしまうそうだ。「ニホンミツバチのような謙遜なかしこい生き方はわたしたちに何か意味を伝えているようです。」と言われたことがずっと心に残っていた。
ただしMaxは、ヨークシャーよりは、イタリアンの方が飼いやすいと言う。ニホンミツバチもヨークシャーと同様、巣が気に入らなければどこかへ行ってしまうし、飼い慣らすということを主眼にすると扱いはむずかしいと一般的にいわれている。人間の都合よりは、ミツバチの生態として調和がとれていることに目を向けることは、どこかゆとりを感じさせられる。

お世話になっている養蜂家がいつかこんなことを言っていた。「ミツバチのことを知っているとか、養蜂をしているというと西欧の人からすぐに信頼されます。それぐらい養蜂という職業は海外では認められているのね。」
確かに、わたしのみつばち好きは海外の友人からも温かく支持されている。ブラジル人の友人が"Abejas e colmenas"と命名してくれたんだったし、イタリアの友人はわざわざ故郷のイタリアンのミツバチの写真をいくつも撮影してくれた。岩手に住むアメリカの友人も故郷へ帰った時、偶然ミツバチの分封に出くわし、その一部を撮影してきてくれた。
ノイバレーに住む友人は路上で売られるノイバレーの蜂蜜の写真や、趣味養蜂の方の蜂を撮影してくれた。
日本でミツバチを飼う方々にもとても親切にしていただいてわたしはこれ以上何を望むのか?というほどhappy smilingな日々だったりする。

posted: mitsubako: on 22:35PM

2004年12月10日

蜂のこと その29

●しびれる森の蜜
蜜の獲得には養蜂をして蜂蜜を採蜜する方法と、蜂蜜猟をする方法があります。
岩手の川井村の方が、ヤマバチの話しをしてくださった時、「ハチミツの精」の話しがすぐに浮かびあがってきたのです。
なんでも、ある方が山に入って蜜を見つけ、それを口にするとしびれるという話しだったのです。だから、森で見つけた蜜はその場では食べないというのです。
中南米の伝説の話しはいい伝えによくあるように、少し教訓めいたところがあります。でも、もうひとつわたしが少し想像をめぐらすのは、蜜酒で酔うということです。蜜酒はヨーロッパなどで飲まれるものではあるものの、この酔いと、川井の方が体験されたしびれになにか連鎖するものがあるように思えたりしてしかたがありません。
一方、確かにしびれを催す有毒な花からの蜜がまざるという説も聞いたことはあるけれど、科学的にどうしたという立証よりは、靄に包まれたような奥深い森の中で、したたる黄金色の蜜と酔いは人間の欲深い深層心理をつく幻想的な話しだと思うのです。

あまり踏み込みすぎないでおきたい世界だと思います。

posted: mitsubako: on 22:34PM

2004年12月09日

蜂のこと その28

●ハチミツの精
アラワク族のインディオはハチミツが好きだった。昔は森の中にハチの巣がいっぱいあり、ハチは養蜂をしなくても蜜を見つけるこができた。
毎日おのをかついで、森に出かけて行く熱心な男がいて、どこにハチミツがあるかぴたりと探し当ててくるのだった。
ある日、いつものように樹木の空洞を伺った。そしておのを当てようとすると、突然、小さな叫び声がした。
「お願いです、切らないで」驚いた男は手を止めて穴の中にいるものを怖々覗いてみた。
「わたしはハチミツの精で、名前はマパ。この巣を視察していたの。もう少しでわたしの体まで切られてしまうところだったわ。」手のひらに乗りそうなかわいい妖精と男はすぐに仲良くなった。この日以来、男はハチミツのありかを探すのに少しも苦労をしなくなった。そして妖精は料理が上手で植物の根から酒を造ることも知っていた。こうして男の家にはいつもおいしいご馳走が絶えず、連日連夜、仲間を招待して宴が繰り広げられていた。男には忘れてはいけないことがひとつだけあった。決して、他人の前でマパの名前を大声で呼んではいけないと。もし呼んでしまえば、永遠に男のもとを去ることになるのだった。
ある日も男たちは酒をのんで語りあかしていた。とうとうつぎ足す酒がなくなる程にまで飲み酔い、すっかり上機嫌になっていた男は口をうっかりすべらせてしまった。
「心配するな、マパがすぐに酒をつくってくれるさ」っと。
こう言うなり、男の頭上を小さなハチが飛んで行った。ハチは森に消え去ってしまい二度と戻ってはこなかった。それ以来、男は幸運に見放され、もう二度とおいしいハチミツを見つけることも、美酒に酔うこともできなくなってしまった。

*川井の民話の要約を掲載したので、もうひとつお話を載せてみた。“みつばちの木箱”の話しを作る前にいろいろと調べていた中に中南米のこの伝説があった。ハニーハンティングの話しだ。ハニムーンや蜜酒というつながりを知ったきっかけの好きな話しのひとつだ。

中南米伝説の旅 ハチミツの精から

posted: mitsubako: on 22:33PM

2004年12月08日

蜂のこと その27

●岩手県『川井の民話』から
遠野市立博物館の宇野理恵子はハチに関する俗信についても書かれていました。「蜂が家の中に巣をつくると縁起がいい」と思われていることがあるようです。これを読んだ時、川井村北上民俗資料館で購入した『川井の民話』の中にそれに類似するような話しがあったので、ここに付け加えておこうと思います。
『川井の民話』からの要約
「はちの巣むご御用」
おじいさんと、おばあさんと、1人息子があった。けれどもその息子はお酒や博打を
やって家も屋敷もなくしてしまった。それから家もないことだしと歩きはじめた。歩いたところに木があってそこに蜂の巣があった。ところが、子どもたちが、それを石で打って捕ろうとしていたところだった。そこで、この息子が、この巣を売ってくれと頼んだ。昔のお金で一厘で買った。そしてまたしばらく行くと家があった。「むこ御用」と書いてあったのでむこになろうと家に寄った。
「後ろの山の杉の木が何本あるか数えて来たら、むこにしてやろう」
そこで行ってみたが、さてどうして数えていいのか途方にくれていると、蜂が飛んで来て「三億三万三千三百三本、ブーン、ブーン」と羽音をたてている。
それで、だんなに「三億三万三千三百三本だ」と応えるとむこにしてくれた。
そうして孫もでき男の子ができてお祝いをしたそうだ。その家はだんだん蜂の巣のように年々よくなって、財産持ちになったそうな…。蜂は吉相なもんだ。そのうち長者どのになって孫末代住んだと。
採蜜のことはまたいずれ書きます。

posted: mitsubako: on 22:32PM

2004年12月07日

蜂のこと その26

●日本ミツバチと伝統養蜂
わたしたちが食べている蜂蜜はそのほとんどが西洋ミツバチから採ったものです。ただ、対馬、熊野、伊那などに代表される地域では日本にもともといる在来種、日本ミツバチから採った色の濃い蜂蜜を食べることがあるようです。少しづつですが、ミツバチのことを科学的な側面から、あるいは民俗学的な側面から書かれている文献を読んでいて、この頃日本ミツバチのすばらしさにひそかに憧れ、庭観察で見つけると「今日も来てくれたね」と嬉しくなるのです。なにがそんなにすごいのだろうか?
日本ミツバチのことが初めて文献の中にあらわれたのは、『日本書紀』で「百済の太子余豊、ミツバチの房四枚をもって三輪山に放ち飼う。しかれどもついに蕃息らず」と記録されているといいます。
日本ミツバチは養蜂が難しいともいわれます。体は西洋ミツバチよりも少し小さめで色は黒っぽい感じがします。山奥の大木や古木の洞などに巣をつくり、主には樹木に咲く花を蜜源として生きているといいます。こうして山に暮らすミツバチを林業などを営む山岳地域の人々は生活と共にその生態を知り、それぞれの地域で、それぞれの方法で趣味のような感覚で飼う伝統的な風習があることを知りました。
温暖な気候の地域では、なんとなくイメージもわきますが、実は、2005年の春に訪れた岩手県でもこうした伝統養蜂があることを知りました。旅の最後に川井村北上民俗資料館に立ち寄りました。この北上に残る様々な人の営みと密接に関係する民具には驚きました。冬の寒さは厳しく氷点下15度ぐらいまで下がる日もあると聞きました。こんなところでも日本ミツバチとの関係があることを民具を見て知りました。この地域では日本ミツバチのことを「ヤマバチ」と呼ぶことが多いそうです。これに対して、西洋ミツバチのことは「カイバチ」と呼ぶようです。残念ながら、今回、川井村在住の方に聞いてはいたのですが、遠野で目撃することができなかった巣箱があります。日本ミツバチを飼う巣箱に自然木を利用していているといいます。真ん中に空洞をつくり屋根をつけたようなものが庭先によく置いてあるというのです。こうして、日本ミツバチの分封群を待つのだそうです。いわゆる、四角い箱形の巣箱を作ることもあるのですが、自然木で何度か蜂が住んだことのある巣の方が蜂が入りやすいのだそうです。

遠野市立博物館の宇野理恵子さんの文献によれば、山から来るヤマバチの分封群が設置した巣箱に入りやすい条件があると書いてありました。これは、実際に遠野で日本ミツバチの養蜂経験をされた方の話しから調査を進めた資料です。
・風の当たらないところ
・西風を止めるようなガケのところ
・暑すぎないところ
・大木のあるところ
・地面に置くと木が腐るので少し間隔をあけること
・入口は東へ向ける

ミツバチは飛び立ちやすいところを好むそうです。それはちょっと西洋ミツバチの飼い方を見ていてもそう思います。わたしが見学をさせていただいている養蜂園では滑走路のようなものをちゃんと巣箱の入口にとりつけてあるのを観察の時に見て気がついていました。重たい蜜や花粉団子をつけて戻って来るわけですから着地もしやすいというのも大事なような気がします。
遠野地方では、あまり人が日本ミツバチの生活をいじらないで、できるだけ自然にまかせた放任主義で飼う傾向が強いということが書かれていました。これはすばらしいことだと思います。巣が気に入らないとすぐにどこかへ逃げ出して行ってしまう日本ミツバチはあまり管理された状態よりは自立型なのだと思います。それだけに、人はその生態を熟知して必要な時だけ手をさしのべることができないと共生はできないデリケイトな種なのだと思います。つまり、人間とミツバチの関係がより自然であるということだと思います。そして、人間ができることはできるだけ、ミツバチの好きな環境を維持してやることなのだと思います。伝統的な養蜂には、そうした長い付き合いや経験の積み重ねから生まれた知恵とか技術が凝縮されているように思います。

posted: mitsubako: on 22:30PM

2004年12月06日

蜂のこと その25

●記憶飛行
みつばちは記憶飛行というのをするらしい
巣箱から生まれて初めて外界に出て飛び
再び巣箱に戻ってくることをそう呼ぶのだそうだ
この季節(とき)は
花のある蜜源とかには向かわず
ただ巣箱の位置を知るために日だまりの中を飛んで帰って来る

記憶飛行とはなんと惹かれることばだろう

posted: mitsubako: on 22:29PM

2004年12月05日

蜂のこと その24

●『分かたれた家』A house divided Mark Thompsonの活動
1989年、まだ東西の分断が続くベルリンでひとりの作家が蜜蜂を追跡していた。19世紀に使われていた蜂捕獲箱を使い、森の樹のほこらに棲む野生の蜜蜂や、飼育されている蜂群から蜂を追って、東西6kmに渡る四方を探し求め歩いていた。作家はこの追跡方法をliningと呼ぶ。追跡から西ベルリン側のピッカードさんの養蜂場へ辿りついた。養蜂家に自分のやろうとしていることを話すと、蜜蝋を分けてくれた。この蜜蝋はまだチェルノブイリ原発前に採取された放射能を含まないもので、貴重だった。

作家は西ベルリンの壁近くにある病院を「ベタニア芸術館」としてプロジェクトの場にした。

自然を共有できるモチーフを選び、その土地固有の素材、歴史、環境、さらに人々との関係をどんどん取り込んでいく作品形態を主眼に展開したこのプロジェクトは、行き着く先が予定調和的なものではない。集めて来た蜜蝋は、作品を公開する一室のアーチ型窓に塗った。窓から射し込む光を通して、この室内が蜜蝋色に包まれる。室内に立つ2本の古びた円柱もこの蜜蝋で覆い、豊かな香りが部屋を満たす。ガラス張りの巣箱1ケースをこの部屋に設置し、巣箱に蜜蝋とピッカードさんからの分蜂群を放した。巣箱とパイプを通じて病院の内と外をつなぎ、蜜蜂は自由に外へ蜜源を求めて飛んで行く。そして、また帰ってくる。東西の花から蜜を集め、ケース内に新しい有機的な巣を形成していく模様がライブで見ることができるのだった。
この1シーン、ガラスの巣箱の中での瞑想がCalifornia College of the ArtsのMark Thompsonの作品集で見ることができる。
人間は壁を越えることができなくとも、いと小さきみつばちたちによって、ひと足先に東西融合の予兆があったことに、私は大きな意義を感じる。もしかすると、自由に見えていて、私は、見えない壁に囲まれて決して自由でないかもしれない。だけど物理的に国の政策として、こうした制約を受けたことはない。実際にこうした体験をした人々は、一概にはいえないが、我慢強く耐えることに慣れている。だから、ちょっとした弾圧とか、抑圧にも沈黙で闘える底力のようなものが静かに備わっていると私は感じることがある。東独、チェコを訪れた時に、あるいはインドネシアの作家と共にした時感じたことだった。

蜂が行きかう光景を、もしその場で見ていたとしたら、その姿に私は何を見るんだろうか。

この作品の一部は、古事記の文献に初めて蜂が現れた状況と似ており、大国主命が何かの試練のための通過儀礼として蜂の群がる部屋に閉じこめられたとあることを想起させる作品でもあったと、訳者の松香光夫氏は書いている。


もう一つの作品はここ日本で行われたものだった。
松尾芭蕉の『奥の細道』に深く共感した彼は蜂箱をしょってその足跡の一部を辿った。私はそれが一体どこあたりだったのか実際に知りたいと思う。

道連れの蜂に、作家は蜜源を求めて旅をする。蜜源に辿り着くまでは、目的に向かって歩調も急ぐ。けれどもそれに近くなるにつれて、歩く歩調も緩やかになる。場へ行き着く一歩一歩は独立したステップではなくて、この連続性が線となり、場から場へとつながりをもたらす。やがて、蜂と人との関係に相互感が芽生え、共生関係が生み出される。蜜蜂は花らか蜜を得、花は蜜蜂を媒介に花粉を運んでもらい、新しい芽生えを繰り返す。養蜂家は自分の求める蜜にしたがって蜂から糧を分けてもらう。常に蜂群の状態が将来にわたり良い状態であるようにと一部を残しておく。蜂と養蜂家の共生は自然界との深い精神性とつながりをもって調和している。この移動と共生には、何年もの月日が費やされて、はじめてバランスが保たれる。プロジェクトを通して気づかされていくこと、この「目覚め」が彼の作品意図である。
追記:旅先の途上で、彼は家族にはがきを送るという。


これは、また別のところで紹介するが、私がこの作品を知りたくなったのには大きな理由がある。1996年、岡崎乾二郎の親友でもある、ロシア人作家ヴァディム・ザハロフ氏を招待した。その際に私は、彼と同行してプロジェクトのサポートをした。無人島へ渡る計画を立て、その地を選ぶにあたり岡崎氏は「芭蕉の足跡を辿るとか、そういうことを彼に話てみて。東北がいい。」と旅先のアドバイスをもらい、松島あたりを探したが、結局、宮城県立美術館の斎さんの勧めなどで、気仙沼沖、大島に渡った。1ヶ月に渡る彼との旅のプロジェクトは、表出するものこそ違うけれど、源流がThompsonと似ている。私が未知数で体験したことが、後々紐解くように理解できるようになったりすると、その時あらためて感謝と貴重な体験をさせていただいていたことに気づく、今である。

最後になるが、Thompsonのライブ・インのガラスの巣箱には思いがある。私のプロジェクト“みつばちの木箱”の前身では、ガラスの蜂箱を考えていたことを記しておきたい。そして、エルンスト・ユンガーの『ガラスの蜜蜂』を想い起こしたりする。

※見つけられたら、Hi8から東独を旅した時のベルリンの風景をいづれここにアップします。
芸術に関するものは“草の根っこ”のカテゴリーに入れていたのですが、“蜂のこと”に入れかえることにしました。

posted: mitsubako: on 21:33PM

2004年12月04日

蜂のこと その23

●蜂を追う人へ
蜂のこと その19で教えていただいたMark Thompsonさんに手紙を書いた。小学生みたいな英文で恥ずかしいけれど、熱意は伝わるかもしれない。一緒に「蜂を追う人」と墨で描いた紙も送ることにした。

マーク トンプソンさんへ
玉川大学ミツバチ科学研究施設の先生にあなたのミツバチのプロジェクトのことを聞きました。私もミツバチに興味を持っています。私は"Abejas e Colmenas"、日本語のタイトルではみつばちの木箱というプロジェクトをやっています。花の開花にあわせて木箱をしょって北上する蜂飼の幻影の話しを書きました。蜂飼はその旅の途中で誰ということもなく、宛先も書かずに、ただはがきを投函するのです。蜂飼はこのお話の中では象徴的な隠喩です。
昨年の11月、私は本当の蜂飼に遭遇する機会がありました。彼は親切に、ミツバチのことやミツバチの生活について教えてくれました。そして、いつでもミツバチを観察に来てもいいと言ってくれました。私は生まれて初めて、蜂飼がこの地でどうミツバチを飼っているのかを見たのです。ミツバチの羽音があちこちから聞こえてくるのはとても心地よかったです。どうしてかわかりません、でもこの小さな生き物に対して感謝の気持ちが起きました。ミツバチは作家みたいだなぁと。
その後、私は玉川大学ミツバチ科学研究施設に、取材見学の依頼のメールを出しました。
中川純さんが、返事と一緒にあなたが活動をした二つの作品、『分かたれた家』『野性のはちの足跡を追って』のことが書かれた記事を送ってくれました。
トンプソンさんのような人が本当に実在していたことに驚きました。私の話がただの幻想ではなく真実であったことも嬉しいです。
あなたのミツバチのプロジェクトについて本や書かれたものがあれば、是非送ってください。そして、あなたが日本に滞在した時に蜂かごをしょって、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡をたどった旅についてももっと詳しく知りたいです。私は、あなたの活動にとても興味があります。今でも続けていますか?そうだといいです。
返事が来ることを待っています。

この手紙は明日、切手をはって投函する。

*この手紙は残念ながら差出人住所移転のためもどって来ました。その後、私は、サイトでThompsonさんのことを見つけて、メールをしてみました。返事があって新たな住所をもらいました。

posted: mitsubako: on 19:20PM

2004年12月03日

蜂のこと その22

●図書館で借りた書籍から
尾崎一雄の『蜜蜂が降る』を昨日図書館で読んでいました。尾崎の家の裏庭の老木に棲みついた蜜蜂のことを淡々と書いたものです。年老いた働き蜂が、降るように地面に落ちて死んでいる、蜂騒動そんなことが綴られています。私が知る養蜂家が、そこら中に死骸があると言って地面を見た時のことを思い浮かべながら読みました。これは、決して悲しいことではなくて、種が存続するためのサイクルです。蜜蜂は子どもを産むことのできる女王蜂をひと家族として巣を持ちますが、この巣が分かれてまた新しい巣ができる、この巣の単位としてでなければ種が増えるとは考えにくいようです。一度、この分封を観たいと思います。これまでは、寒い時期に観察に出かけていたのですが、これから春に向けて、蜜蜂の活動は活発になるので、羽音で沸きかえる巣箱に、私は大丈夫だろうかと、適性を試される機会になりそうです。
尾崎の文章の中にPathetic Fallacy、感情的誤謬という言葉が出て来ます。無生物に人間の感情を帰することと言っていますが、尾崎は蜜蜂という生物に感情があるように思うと書いています。働き蜂を観ていると、ひたすら蜜源に行って戻って来て貯蔵しての繰り返しの作業がどうしても機械仕掛けのように思える時があります。でも、巣箱の入口近くでもぞもぞと頭を付き合わせてたりしている様子や、こちらの様子をうかがっているように思えることもあると、すごく感情があるもののようにも思えて来るのです。
図書館で3冊の本を借りました。昭和28年に発行された『蜜蜂の不思議』カール・フォン・フリッシュ著(法政大学出版局)、『新しい蜜蜂の飼い方』井上丹治著(泰文館)、『養蜂記』杉浦明平(中央公論社)。しばらくこの3冊は私と一緒に移動をする本たちになりそうです。フリッシュの実験はおもしろいです。そして、この本は、折り目がついていたり、えんぴつで線が引かれてある箇所が残っていて、一体どんな人がこれを読んでいたのんだろうと気になる一冊でもあります。

posted: mitsubako: on 22:46PM

2004年12月02日

蜂のこと その21

●往復書簡 中村純さんから
私は自分がメディエータでみつばちのことを伝えているつもりでいるところがあった。けれどもこの小さな生き物を深く知る人びとに出会うたびに、それは私の奢った考えであったと羞恥しています。メディエータは私ではなく、まさにみつばちそのものだ。
ミツバチ科学研究施設の中村純さんから、5月21日に書いた「蜂のこと その20」のコラムに返信をメールで頂きました。この共感を私1人の中にとどめておきたくないと瞬時にして思いました。

読んでください、フィールドで体感した声が確かに見えます。

From:中村純
自然や環境への視点は、私自身のものではなく、ミツバチの視点だと思います。ちょっ とお話ししましたが、以前とあるNGOの要請でネパールに養蜂指導に行ったとき、山頂まで切り開いてしまった村で、とても養蜂なんかできそうになかったのですが、じゃあここでミツバチを飼うにはどうしたらよいのだろうという疑問を投げかけたら、花や花を育てる水などいくつか必要なものが出てきて、それのもとをたどるようにし向けただけで、村人の口から自然に森の再生ということが出てきたのです。NGOの働きかけとしてそういう事業もあったのに、いきなり森を再生しましょうというだけでは、いろいろな利害が対立したり、森の必然性が実生活と結びつかなかったり、水が先だとか、何が先だということで収拾がつかない状態のようでした。とりあえず苗床は作ったものの、その苗からイメージされた森の機能はなかったように見えました。それなのにミツバチがどうしたら住めるのかという風に第三者的に考えたら、あっさりと森の機能が必要だということになってしまうんです(もちろんそれを具現化するためにどうするかは別問題ですが)。森があれば水も得られ、その水で果樹も育つ。木が大きくなれば、薪もとれるし、ミツバチの巣箱の材料も森から得られる。今はほとんどいない野生のミツバチも森に戻ってくる。そのミツバチがいれば、野菜のタネだって自分たちで作ることができる。そういうことが、ミツバチひとつをイメージするだけで見えやすくなると思えました。
自分たちの生活を見直すためにも、一歩引いて第三者的視点で見ることが必要なのに、そのこと自体が何か別の客体がないと難しいのだろうと思うのです。協力隊時代はネパール人は想像力がないと思っていましたが、多分こうした視点移動ができれば、もう少しわかったんだろうと思います。
それは実は今や日本でも必要なことみたいですね。情報の表面的な部分を引き継いだような拡散(例えば自分自身も身を置いている教育もそうですが)は、伝える言葉は立派でも、また言葉の持つ意味自体は伝わっても、その事物の持つ機能性や他の物事との有機的な連関までは伝え切れていないのですが、ああそれって受け手に想像力がないからだと思うことが多いです。環境という場面では、ミツバチのように環境をマルチに利用(飼うヒトの行為も含めて)しつつも使い尽くさないタイプの生物が生きていけるかどうか、具体的に考えてみることもできるんだろうなあ、などとは思っていますが、やっぱりあくまでミツバチの側に立った発想なんです。(05.05.22)

posted: mitsubako: on 22:45PM

2004年12月01日

蜂のこと その20

●ミツバチ科学研究施設
5月晴れの爽やかさをいくぶん通り越した初夏の陽気の今朝、家を出る前に庭の光の中をもやもや白いものが浮遊している光景を目にしました。それは小さな虫であったり、タンポポの綿毛だったり…。それを見ているだけで空気中の密度が急に濃くなった感じがします。
電車に乗り込みました。田園の都市に向かうにつれて緑が茂り玉川学園前で降りた頃には、日中の日射しも照りつけ、暑さに弱い私は少しぼーっとして坂道を歩き始めました。降りたった駅は名前のとおり学校です。構内は森のように木々があって気持ちがいい。15分ほど歩いてやっと目的の校舎にたどり着きました。
今日、私は玉川大学のミツバチ科学研究施設の訪問を許されて、中村純さんとお会いしました。メールでは何度もやりとりをさせて頂き、いつも本当にご丁寧な、そしてたくさんの事を教えて頂いていてお会いできるのが楽しみでした。いや、本当を言うと少し緊張していました。「こんにちは」はじめのご挨拶で私は、すぐにほっとしてしまいました。とても優しい空気がそこに溢れていたからです。
研究施設で中村純さんと、榎本ひとみさんに、いろいろな資料を見せて頂き、私の小さな好奇心の中からたくさんの興味引き出して頂きました。それは、一度に全ては書けないので、「蜂のこと」を書くたびに、あるいは他のエントリーでこれから消化されてことばとなっていくことでしょう。
今日は、まずは中村さんの人となりを記しておこうと思います。本来ならば助教授でいらっしゃるし先生とお呼びするところだと思うのですが、あえてそうお呼びしないところに、私の人としての敬意というか、人に対するこだわり感を残しておきたいと思います。
今日、参考になる文献をいくつもご提供頂いて、これから私はそれを手がかりに楽しくミツバチのことをもっと考えながらそれを取り囲む大宇宙を見つめて生きたいと思います。
ミツバチ科学研究施設が定期的に発行している『ミツバチ科学』という雑誌があります。中村さんはこの編集長でもあり、研究者の立場としても数々の論文や報告を掲載されています。
2002年のVol.23号にインドの環境保全活動について書かれていたものを、今日帰ってから読みました。3時間以上にも渡って、今日お話くださった中に、中村さんの自然環境に対する眼差しとか、海外青年協力隊に参加されていたこととか、私の中に大きな共感がひろがりました。
中村さん一行はニルギリ高地を越えてウーティという辺りから深い谷間に広がる人工的な美しい風景を目にしました。イギリスのコロニアル時代に成功をおさめた美しい茶園の陰に、その美しさとは相反する住民や生態環境に大きな問題を残していたのでした。
中村さんが訪ねたキーストン財団ではミツバチと人間のための環境保全活動を行っていました。茶園で壊れてしまった本来この地の持つインド亜大陸の多様性に満ちた生態の保全
がその主眼であるというのです。そしてもう一つ、地域資源となる成果物の発掘が地元の生計を成立させるためには重要となってくるからです。
キーストン財団は、この地に住む多くの少数部族が伝統的にミツバチを飼い、ハニーハンティングをする文化であることに注目しました。ミツバチを採用した開発事業は、ここの地でここで起きたケースとして、住民の生活の維持、向上のために生物の多様性が守られねばならないことと結びつくわかりやすい事例となっているようです。
ミツバチを取り入れた開発事業は「飼う側」と「飼える環境」の両方が整っていなければなりません。森の中で自然発生的に行われてきたミツバチと人の関係はまず「自然に聞け」ではないけれど、その森に見合う生産量を超えることはできないのです。一度崩壊してしまった森に樹木が花をつけるまでにはどれだけの時の流れが必要なのでしょうか。そしてその樹木が何年も何年も生きて大木となり、ゆっくりとした時間の中に人、ミツバチ、そしてその他にもたくさんのその土地固有の生態圏を担うもののサイクルがかみあってこそ存続していけるものなのです。
何者かがそこで欲を持つと、長い間続いたサイクルは簡単に壊れていってしまう。
中村さんの書かれたこと、そして今日話したことから私はこんなことを考えました。

「自然は儚くもあるが、人のはかりしれないところでゆっくり回復する、いやもしかすると再生する力がきっとある。私はそう信じていたい。」

中村純さん 榎本ひとみさん お忙しい中、今日は本当に長い時間を割いてたくさんのことを教えてくださりありがとうございます。帰ってすぐ、家にニホンミツバチが来ていないかと探しました。
これからもよろしくお願いします。

posted: mitsubako: on 22:43PM