2008年07月13日

アイヌの結婚式

金曜の夕べ、友だちにさそわれて民族文化映像研究所の1作品「アイヌの結婚式」を見に行った。今から約40年前の1971年4月10日のこと。ひとりのアイヌ女性小山妙子さんがアイヌ式の結婚式をしたいということから話はじまった。彼女はアイヌ式の結婚式をすると名乗り出る男性が現れるまで結婚を待ちつづけたという。その相手が貝沢三千治さん。貝沢さんはアイヌの聖地ともいわれる北海道二風谷の部落で暮らす。妙子さんはそこから西へ山を越えた鵡川部落の出身だ。ふたりは、伝承のウウェペケレ(昔話)、ユカラ(英雄叙事詩)、古老たちの見聞や萱野茂二風谷アイヌ資料館の創設者で3年前に亡くなられた萱野茂さんらの助けをたよりにアイヌ流の挙式を挙げた。
男と女は結婚を前に贈り物の交換をする。女は刺繍をしたテクンペ(手甲)を、男は彫刻をほどこしたマキリ(小刀)をそれぞれ渡し合う。男の家からはイコロ(宝物)が女の家に届けられ、男の住んでいる村では新婚の夫婦がこれから暮らす家の準備をする。ポロチセと呼ばれる大きな小屋は笹葺きのようなもので近隣の自然素材から組み立てられているようだ。室内にはいろりがあってゴザのようなもので間仕切りをした向こう側に寝室をこしらえている。部屋の隅々を清めて女を迎える支度をする。花嫁は花ゴザの中に入るだけのわずかな衣類などの荷物をまとめ、背負い花婿の待つ村へ向かう。花嫁が到着すると新郎の母が泣いて抱き寄せて迎える。結婚式はまずエシカとよばれる長老が火の神に祈りをし、その後生涯寝食を共にする意味で花婿と花嫁がトゥキ(高盃)に盛られたご飯を分け合って食べる。この日のために口こみで集まった各地のアイヌの人々が会費をにぎって宴に加わる。ウポポ(すわり唄)、舌をまいたような声で唄いながら舞うハラキキ(鶴の舞)、ホリッパ(群舞)などアイヌに伝わる唄と踊りは夜更けまで賑やかに止むことはなかった。
民族文化映像研究所の所長・姫田忠義氏との談話へとプログラムはつづく。姫田氏は「忘れられた日本人」などで知られる民族学者故宮本常一に師事し国内外を活動的に歩き映像による民族文化の記録作業をはじめた人だ。撮り続けて40年の歳月が過ぎ、119本のフィルム作品と150本あまりのビデオ作品を生み出している。タイトルリストを見るだけでも魂をゆさぶられる衝動がある。先日、わたしはオーストラリアの先住民族アボリジニのエミリー・ウングワレー展を見にいったことを書いた。「なぜ彼女がカンヴァスに絵を描くようになったのか」という疑問がずっと心にある種の痛みをともなって感じていた。昨夜、姫田忠義氏が「ありのままを、あたりまえのなかにあることを記録する」と熱く語った中に、わたしが感じた痛みは決して錯覚ではなかったことを再認識した。岩波のブックレット「忘れられた日本の文化」に書かれた冒頭の文章から抜粋をしたい。そこに姫田さんのすべてのものを見る姿勢があると思う。

私たちの研究所は、志を同じくするごく少数のものが集まってつくりあげてきたものである。すでにできあがっている国立機関でも、大学の研究機関でも、どこかの企業がつくった組織でもない。自発的な個人が、それぞれ持てる力を集めて活動をはじめ、ある長い準備期間ののちに活動を本格化し、研究所というかたちをととのえたものである。つまり私たちの研究所の基本は、あくまでも自発的な個人であり、個人の志が基本なのである。
「忘れられた日本の文化」個——孤独からの出発より 岩波ブックレット No.193 姫田忠義

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2008年06月29日

nodoca 写真展

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時々このblogにコメントを書いてくれる東京のyamaさんは、実は幡ヶ谷にあるpopontaレストランのマダム。われらのマダムpopontaと称されて愛されている人のひとりだ。popontaのシェフ岸畑さんは彼女のパートナーでもある。少し前になるけれどメニュにクスクスがあって、これは絶品。味はとてもことばでは説明できないので食べるにつきる。
さて、このpopontaで6月30日(月)から初の写真展が開催される。このblogに何度か書いたnodocaさん、わたしの採蜜の風景を撮影してくれた人でもある。photologで見ているのとはまた違った味わいがきっと見れると楽しみにしている。期間は7月6日(日)まで。
梅雨時ではありますが、ぜひpopontaでおいしいものを食べながら写真を眺めてください!popontaへのアクセスなど情報は下記のリンクから。展示は1週間ごとにかわります。
http://www.poponta-r.com/

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2008年06月28日

二通のメール

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先週末「ディスポジション 配置としての世界」のシンポジウムに行った翌日、遠野の徳吉敏江さんとぱくきょんみさんからメールが届いた。
遠野の徳吉敏江さんとは、ちょうど今から2年前ぐらいのこの時期に霧の高原を案内してもらったり、ふたりでぼんやり高原に座って馬や雲を見て風を感じるわずかな時間を一緒にすごした。intimateということばが英語にあるが、わたしは少なくともそんな近しさを心の中に持ったひとりだ。敏江さんはどう思っているかはわからないけれど一方的に。いつも会っているわけでもなく、頻繁に連絡をしあっているのでもなく、長い付き合いでもないけれど、そういう心の触れ合いを感じる人が時々いる。彼女はディスポジションに共感してメールをくれた。置かれている境遇はちがうにしても、わたしと同様に、このことばが切り開いてくれそうな予感に勇気づけられていることは確かだ。
きょんみさんのメールは岡崎さんからの転送メールだった。
「アリストテレス→イスラム→中世ヨーロッパと伝播し、中世ヨーロッパでもっとも美しい絵本として歴史的に名高い書物です。中世ヨーロッパのまさしく暮しの手帖。」
ということばと養蜂の挿絵が添付されていた。「TACUINUM SANITATIS」あまりの美しさとこういう好奇心への躍動感を与えてもらえることにポロリと涙の粒がこぼれた。すぐにこの本のことについて調べてみることにした。なにしろ養蜂のことが出ているんだから、いい本に違いない。奈良女子大学の文学部国際社会文化学科教授の山辺規子さんの解説をさっそく読んでみた。イスラムの医学者イブン・スィーナーの『医学典範』は中世から近世にかけて、ヨーロッパの大学医学部でもっとも基本的な医学書として用いられた。古代ギリシャやローマの
伝統的な医学を継承しインドの薬学などの知識を加え発展をしたイスラム医学は、中世の半ばにヨーロッパ地中海沿岸各地で受け入れられていった。こうした背景下にアラビア語で書かれた書物がラテン語に翻訳をされていったという。「TACUINUM SANITATIS」はその中の一冊であった。イブン・スィーナーは11世紀にバグダッドで医学を学び、健康のために役立つ食物などの情報をわかりやくす表にまとめた。いわば「健康表」と直訳される書物をつくり、健康に関するあらゆる知識がまとめられていたことから「健康全書」という名で呼ばれていたそうだ。このデータをもとにおそらく14世紀末、北イタリーで図版を中心とした写本がつくられることになった。神奈川共同出版販売というところに問い合わせをしてオーストリーのグラーツ大学でつくっている普及版をおかりすることができた。貴重な本でとても高価だ。おもしろいのは、文字ベースでまとめられた文献に別の時代と生活環境をてらして、あらたに別のご時勢に役立つ写本を再生した点だ。だから図版からはむしろ中世の生活が浮かび上がってくることになる。今後、山辺規子さんの本や文献もあたってみようと思っている。

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2008年06月22日

流動性とディスポジション

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週末近くになると急にバイタリティーがあふれてくる。
土曜の午後は「ディスポジション 配置としての世界」(現代企画室発行)の刊行記念シンポジウムに行った。ゲストコメンテータに岡崎乾二郎がよばれていたからだ。シンポジウムは題して「うまくいく」ことの倫理と技術だった。刊行された本は手にとってもいないまま会場にのぞんだ。ディスポジションとは、世の中を均質化・合理化してきた近代的思考を批判して、配置や関係性から主体という認識を脱し、複雑性を活性させていく概念として提示したと考える。若手の批評家として活躍をはじめている柳澤田実、萱野稔人、染谷昌義、大橋完太郎、平倉圭らが哲学、倫理、生態心理学、美術、建築などの領域から世界を横断的にとらえる新しい方法論の創出としてたちあげたものだ。この潮流はおおいに歓迎したい。ポストモダニズム以降の思想の流れからは何も新しいものが生まれていない。批評が弱くなれば現代美術もおもしろくない。もう少し飛躍して言うと、「芸術がだめになれば世界も退廃していく」と思うのがわたしの根底の考え方だ。よどんだのこの現状に突破口を開いて、表現の自由を活性させるために思考の資源を生み出そうとしていることがよくわかる。わたし自身のことを思ってみても、資本主義にすっかりはめ込まれた生活から抜け道を見いだすのは難しく、四苦八苦もがく日々が続いている。何かをかえなければと思い続けている。「ディスポジション」の概念は、こんなわたしに大きな意味をもたらしてくれた。
「つくっては壊れる」というテーマは「みつばちの木箱」の再生プロジェクトをあらわしている。岡崎が言うところの「人為的に構成したものは必ず崩壊する」ということばとリンクしてそれを受けている。テーブル・コンポジションというテーマで身近なものの撮影をはじめて数年が経つ。テーブルの平面を地にして物の位置関係やネガティブなスペースをむしろポジティブなスペースに置き換える試みとして続けてきた。なかなかこれが成立しない。もうひとつ、抽象写真というテーマで工場裏の廃棄物などを被写体にし、接写することで抽象性を高めるという行為を繰り返している。バラバラのテーマ性でありながらも「みつばちの木箱」全体のプロジェクトを最終的にはミニマムな表現にそぎ落として行く工程として様々な視点から取り組んでいる。つまり課題と実験過程を持って一応の着地点を模索している。そこにもうひとつ「ディスポジション」という概念をプラスすれば、わたしの表現はどう変わるだろうか。いや、どう変われるか。
シンポジウムの前に、エミリー・ウングワレー展を見に新国立美術館へ立ち寄った。オーストラリアの先住民族アボリジニの部族として砂漠地帯でボディ・ペインテイングや砂絵を描いていたエミリーは80歳近くになってカンヴァスに絵を描くようになり、その数は4千点にもおよぶといわれる。以前、「ナヴァホの砂絵」金関寿夫著から一回性の詩について学んだことを書いた。カチーナドールなどに共通するプリミティブな神話性とシンボライズが頭に浮かび、すぐにでも作品を見てみたいという衝動からかけ足ででかけた。彼女の作品に純粋に心を奪われてたくさんのインスピレーションをもらった。西洋絵画の知識も教育も受けなかったとされている彼女が、なぜカンヴァスとアクリル絵の具に向かうことになったのかは疑問が残る。オーストラリア政府がアボリジニに対する保護政策の一環として、歴史の修正と観光の目玉といったいくつかの正しくあるべき行為が背景にあるのではと頭をよぎったりする。が、ポリティカルコレクトネス的な発想はとりあえず置いておいて、彼女は本当に自然の中に生きていたからこそ抽象性の高い記号に置き換えて表現することができた。むしろ人類の然るべき姿として当然の証ではないかと感じるのも確かだった。彼女の絵画の前に立ったときジョージア・オキーフのことをすぐに思った。ストイックに生きたオキーフと同等に、むしろそれをはるかに越えた混沌世界から、あるいはドリーミングから生まれた抽象性にわたしは「かなわない」という敬意の念をもって評したい。
かけ足で巡った土曜日のふたつの出来事はまるでかけ離れた線上にあることだった。「うまくいく」ことの倫理と技術は方法論を深く考えてもよし。考えなくても自然界と直接対話できるスーパー・ネーチャー・パーソンがいるという点で、「ディスポジション」は今後のわたしにおもしろい示唆をなしていくような気がしている。

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2008年06月14日

6月の色

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食料品を買ったり花やに久しぶりに行った。ミルクホワイトに生まれかわった灰塚の机に6月の色を集めてみた。

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2008年06月09日

インスパイアー

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5月中旬からいろいろな刺激を受けてインスパイアーされている。
森林を歩いたり、館野泉さん、キース・ジャレットのピアノコンサート、おいしいものを食べたり、「オオカミの護符」という題名のドキュメンタリー映画を見たり、清水ミチコさんのゼミに参加した。感化を受けておおいに笑って自分のなかに還元している。受けとったものの中からわたしの表現に解釈をして移行している。いま、平行していくつものことを始めている。以前のわたしなら自己完結していることばかりだったのに、最近は人と一緒に考えてつくることがおもしろくなっている。
創作用のテーブルの上は、あれこれとインスパイアーされるものでごったがえしている。仕事で得た収入の一部を活動の費用にあてて「みつばちの木箱」はまたほんの少し前進中だ。
清水ミチコさんの話しを聞いた晩からいろいろな考えをめぐらせている。1時間半も人を笑わすことができるのは手放しですばらしいと思う。女性特有の力みもなく、ニュートラルで、好奇心旺盛、変わっているけれど変わり過ぎてはいない、そんなバランス感覚のよさを感じる。ゼミの後ちょっとした会話を岡崎さんとした。「いつまでも無名でとおす」ということばに無性に心がひっかかっている。とりとめのない、突拍子のないことを書いているが、インスパイアーされすぎて頭の中は創作テーブルと同様にごちゃっとしている。つまりお取込み中状態なわけだ。

posted: mitsubako at <02:06AM> | permalink

2008年05月18日

みどりの力

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新緑の林のなかを休日歩いた。汗をかいて、野鳥の声に耳をすまして、涼しい風を感じて、新緑の息吹の中で大きく深呼吸をして、空を見上げて、木漏れ日がきれいだと声を発するだけで、生きている意味が見えてくる。
みどりの力は想像以上に心身に元気をくれた。森林や湿原を歩こう、これからも時々。

posted: mitsubako at <22:40PM> | permalink