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        <title>journal</title>
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        <description>自転車を一台用意して走ろう。自転車の速度で書かれたノートから</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2012</copyright>
        <lastBuildDate>Sat, 04 Feb 2012 18:23:08 +0900</lastBuildDate>
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            <title>ノーザンラライツ、極北の光に</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="pont_hope.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/pont_hope.jpg" width="420" height="315" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<small>（写真はTerence Meade撮影のポイントホープ村）</small></p>

<p><br />
恥ずかしながら、1960年ごろのアラスカ氷原で幻の核実験場化計画がもちあがっていたことを最近知った。舞台はケープトンプソン、その一帯は約二万年以上にわたり、先住民たちが生きてきた痕跡が残る北アメリカ最古の暮らしの場である。「核の平和利用」と説き、数ヶ月の夏場にしか機能しない人工港を、水爆実験を用いて建設しようとした計画だった。これを「プロジェクト・チェリオット」という。<br />
白一色の荒涼とした大地は、貨幣価値経済や科学技術に生きる側から見れば、「もっとも不快な地」といわれた。一方、自然界の摂理を基軸に暮らす人々にとって、そのことばがあてはまるとは限らない。昔からティキラック、イヌイットのことばで「人さし指」という意の地方ほど豊かな土地はなかった。<br />
太平洋ビキニ環礁沖での核実験で国際的な批判を受けた研究チームは、アメリカ国内に実験の場を探し求めていた。条件は地の果てであること、つまり人があまり住んでいない地。そこで選出されたのがケープトンプソンだった。アメリカ原子力委員会の命を受けてやって来た科学者グループの中に、若き日の生物学者ビル・プルーイットがいた。ビル・プルーイットは北方の自然に憧れ、アラスカで野生動物の研究をするのが夢だった。1953年にその夢の大地へ足を踏み入れ、アラスカ大学のフィールド・バイオロジストとして雇われた。ビルは生物学者というより、ナチュラリストであり、旅人だった。大自然の中で生き生きと暮らしながら生態調査をする彼のバイオロジストとしての姿勢や実力の右に出るものは当時いなかったという。しかし、ビルを知る人物は、バイオロジストとしての偉大さだけでなく、何か夢を誘うようなビル独特の世界があったという。星野道夫はそれを極北の自然に対する少年のようなロマンチシズムと書いている。（ノーザンライツ　星野道夫著　新潮社文庫）<br />
人間が住んでいないという条件で選んだ場所は、皮肉なことに、北アメリカでもっとも古くから人間が暮らし続けてきた大地だった。<br />
わずかな情報をもとに、核の灰がもたらす悪影響におびえていた先住民たちの間に芽生えた反対運動、そして巨額な経済効果の裏に潜む人類への危機を使命をもって守ろうとした数名の知識人たちの活動による闘争がはじまった。核実験反対を唱えるニュースレターが徐々にアメリカ全土に知られて行き、アメリカインディアン協会代表も阻止のための協力に立ちあがった。アメリカがアラスカを買った時の最初の土地法では、先住民たちの伝統的な暮らしが侵害されない保証がされており、まだその権利は有効であった。たとえ自分の人生が犠牲になったとしても、少数派の良心をともなった知識の効果的活用と生活を営んでいる実証人たちの力の融合が、ついにアメリカ原子力委員会を揺り動かし、1962年8月事実上「プロジェクト・チェリオット」は中止された。星野道夫によって語られたこの「幻のアラスカ核実験場化計画」で、わたしがもっとも注目したのが地衣類だった。わたしは福島原子力発電所の起きた2011年3月11日以前と以降という見方をこれまでしていたが、それはもっと時代を遡ることがわかった。「それ以前」と「それ以降」は1945年を境に意味することと訂正したい。そこを境に地衣類は放射能を蓄積する、もっとも優位な生物と化したことをビル・プルーイットが調査報告していたからだ。わたしはこのアラスカの人々の勇気ある選択に心から敬意を表したい。この選択のお陰で、どれだけ多くの生態圏が守られたのだろうと想像すると自然と涙がこぼれてくる。<br />
NHKで「日本人は何を考えてきたのか　第三回 --森と水と共に生きる・田中正造と南方熊楠--」という番組が放映されたという。わたしは見逃してしまったのだが、一方向に流れていく映像とわたしたちが現在持ちあわせた電子ネットワーク時代の道具上に「連鎖する感情」を、<a href="http://obtweb.typepad.jp/obt/2012/01/senseofwonder.html" target="_blank">内田一成さんは情景的に自身のblogに書かれている</a>。日本を代表するふたりのナチュラリストと感性のナチュラリストともいえるレイチェル・カーソンを重ねている。わたしはさらにここに星野道夫を重ねたいと思う。自分の置かれた現実ともう一方に想像できる世界を持つこと。それはたとえばオオカミの棲む森や鯨がおよぐ海洋だったり、花から花へ蜜を求めるみつばちであるかもしれない。もうひとつの世界は体験をともなって経験化した世界であってほしいけれど、たとえそれが空想の世界であったとしてもいいのだと思う。つまり自然に敏感で想像力を養う力なのだと思う。ビル・プルーイットで言うところのある種のロマンチシズムは否定できない。そんな想いや衝動が人類の営みをつないでいくようにわたしはこのごろ思っている。<br />
数日前の夜、しばらくぶりの友人と静かにビールを飲みながら、回想と他愛のない会話を楽しんだ。友人は旅が好きで、はじめはレールの旅、道の上を行く自転車の旅、そして行きついたのが自分の足で辿りつける登山だった。「山は歩けば行けますからね」と、ぽそりとつぶやくことばにはっとした。そこには手段や方法を削ぎ落としていった一番簡単で難しい目的地への道のりがあるからだ。だいぶ霧のなかをさまよっていたわたしだけれど、思い切って人に会い、話しをしてよかった。無言の者からバトンタッチされたことを終えた爽快な風が、今はわたしの心のなかをとおり抜けていく。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2012/02/post-191.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">草の根っこ</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 04 Feb 2012 18:23:08 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>年の終りに、</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1211.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1211.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>「2011年」は誰にとっても忘れることのできない出来ごとが起きてしまった。3月のあの日を境にして、それ「以前」とそれ「以降」は大きく異なる。それから、年の瀬に親しい友人を亡くした。本来なら心が空洞化してしまいそうなのだが、わたしは意外にしっかりと前を向いていると思う。たくさんのことを感覚的に読み取り、思考は回路のなかで溢れ出しそうなのだが、「慌てずに、冷静に」と見守ってくれる広大な宇宙がイメージできている。自然の掟を少しでも知っていれば、正も負もどちらもなくてはならないことで、それによって有機的な微妙な関係が生まれることが理解できる。その瞬間は負の技が働いていると思っていても、宇宙スケールで考えてみれば、やがては正の方向が働くための鍵ではないかとさえ感じることがある。<br />
12月のはじめに自然のながれで被災地や宮澤賢治の足跡が残る岩手県を訪問した。今年ほど、賢治の童話を読み返したり、詩集を引っぱり出した年もないと思っていた。その矢先に、菅啓次郎さんが、古川日出男さんと「春と修羅」、「銀河鉄道の夜」の朗読会をすると知って、引き寄せられるように会場へ急いだ。まるで誰かがわたしにそういうシナリオの一年を描いてくれたのではないかと思うほど、感謝でいっぱいの年の終りの締めくくりとなった。年末のベートーベンの第九より、わたしには賢治の「銀河鉄道の夜」を聴いた方がしっくりくるなと思った。菅さん、古川さん、小島ケイタニーラブ、ぜひ、毎年やりましょう！<br />
心の中はからっぽっといえばからっぽなんだけど、そこにはしっかり朝の陽光が射していて、悲しみに暮れているよりは、わたしへの使命は「なすべきことをなすように」と告げられているように思う。それは無償の活動でもあり希望へ向かう活動でもある。それ「以降」を大前提としながらも、ここでどう生きて、どう行動するかを問われる2012年が間もなくやってくる。<br />
みなさま、悲しいことの多い一年でした。でも前を向いて、新しい一年も命を大切に、育むこころで歩いて行きましょう。<br />
今年も多くの方々に「みつばちの木箱」の活動を支えていただいたことを心よりお礼申し上げます。そして来年もこつこつとわたしのペースで続けます。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/12/post-188.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 31 Dec 2011 20:27:26 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>with Chihiro 千洋と過ごした時間</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC0952.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC0952.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>妹みたいだった千洋へ...<br />
2011年12月20日、今日から3日前に千洋が亡くなりました。30代前半の彼女にとって早すぎる死でした。昨日の朝、nodocaさんとわたしはお別れに行きました。まるで彼女は眠っているかのようにやすらかな顔をしていました。<br />
わたしたちは姉妹のようでした。夢や悩みごとを話たり、散策をずいぶん一緒にしました。千洋はいつまでもわたしの心のなかで生き続けていくと思います。今日は1日、彼女と歩いた道、旅した写真を集めて<a href="http://www.facebook.com/media/set/?set=a.2683626943044.131350.1627497630&type=1&l=1ca8e3a08c" target="_blank">アルバム</a>を作りはじめました。まだすべてではありませんが、彼女が生きたある人生の時々で一緒に見たもの感じたことが凝縮されています。少しづつここに追加して彼女のことを覚えたいと思います。11月23日に千洋からもらったメールにはこれまでとちょっとちがったことが綴られていました。これが最後の手紙になりました。こんな形でお別れするとは思わなかったけれど、千洋と一緒に考えたりつぶやくことができてわたしはとても光栄でした。ありがとう。天国で見守ってください。</p>

<p><a href="http://www.flickr.com/photos/umgz/" target="_blank">千洋の撮った写真</a>にはわたしの跡もあるね。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/12/with-chihiro.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">いっぱいのきもち</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 23 Dec 2011 22:43:17 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>震災後の遠野へ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1252.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1252.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<small>向こうに見えるのは六甲牛山か</small></p>

<p>仕事を定時で終えて、新花巻で釜石線の最終列車に連絡するぎりぎりの東北新幹線に東京駅から乗った。岩手県気仙郡住田町へ行くには翌日の早朝でも十分間に合うのだが、住田町や陸前高田市を余裕をもって訪ねようと思い、前夜に遠野入りした。遠野でかねてから馬と暮らす生活をされている徳吉家の敏江さんから、万が一の雪のことを考えて遠野を拠点としたらというアドバイスをもらい、宿泊は遠野にした。住田町へは車で40分ほど、陸前高田市の中心地だった場所へは約1時間半ほどで行けることがわかった。<br />
夜9時近い新花巻は寂しい。それでも5人ほどの乗客が、暗闇の向こうからやってくる単線列車を待っている。銀河鉄道の街へふたたびやってくることができた実感を噛み締める。遠野は時雨模様の東京よりずっとあたたかだった。釜石線に乗ると新幹線で移動中のやや緊張した気持ちとはうって変わり、ほっとした。星野道夫の『旅をする木』を読みはじめた。各駅で停車しながら人がひとり、ふたりと降りていく。がらんとした車内には新花巻から同乗した乗客は2人になっていた。<br />
翌朝、ゆっくりと遠野駅まで歩きレンタカーの手続きをした。久々の車の運転は楽しい。まずは明るいうちに、夕方集う詩の朗読会が開催される住田町農林会館へ直行した。住田町へ向かうにつれて雨風がひどくなって来た。340号線の途中、濃い霧が走る場所を通過した。帰りは夜道になるので、だいたいの地形をつかんで第一目的地の住田町に40分かからないぐらいで到着した。住田町周辺を少し歩くが、雨が強くなってきたので農林会館に入る。この日一日限りの新井卓さんの写真展の準備がはじまっていた。<br />
会場を後にして、340号を陸前高田市へ向かって再び走りはじめた。このあたりまで来ると被災地救援活動の拠点基地や仮設住宅の表示を目にしたり、すれ違いにトラックやダンプカーが多くなる。川の駅産直よこたで降り、休憩をする。産直で売られているものを見たりその周辺を歩いてみたくなったからだ。運よく雨が上がり、なだらかな山並みに囲まれた美しい村に実がたわわになったひときわ目を引く柿の木を見つけた。よこたでは横田町のりんごと被災者が手づくりしているフクロウのストラップをお土産にした。そこから一気に陸前高田市を目ざした。少し丘陵地になっているところを境に壊滅した陸前高田市の中心街が灰色の海の方角に見えた。雨風がさらにひどくなったが、被災地域に入るはじめの場所で車を降りてまず立った。地面は雨と震災の影響で水が溜まっている。瓦礫を運ぶトラックは泥のしぶきをあげて通り過ぎて行く。市内中心に向かってまっすぐ伸びているこの道の先にはなにもなかった。どうかこの先に、かならず希望の道が開かれますように、わたしは強くそう思って一礼をした。壊滅地域とそうでない地域を境とする場所にはすでに仮設のコンビニやコインランドリーが営業している。スナック菓子を買ったレシートでさえ、「がんばろう！陸前高田市」と印字されているのが印象的だった。これから厳しい寒さを迎えるこの地の復興作業はしばらく進まないにちがいない。じっと耐えている方々の上によい兆しが見えてきますように！<br />
翌日は強風の寒い朝になった。附馬牛から上郷へ3年ほど前に引っ越しをされた徳吉家へ向かった。この日も移り変わりの激しい空模様だった。突風で雲がきれた一瞬、陽がさすのだが瞬く間に次の雲がやってきて、今度は霰を降らせたりする。6年ぶりだろうか、敏江さんと再会し、娘さんの茜ちゃんも待っていてくれた。馬屋からジンガロウが顔を出している。なんだか立派な馬になった。玄関には薪ストーブがたかれている。椅子を置いてそこでさっそく久しぶりのおしゃべりをはじめた。北国出身の「くま」という名の犬が家族の新メンバーになっていた。慣れるまで30分ぐらい吠え続けていたが、諦めたらころんと寝はじめた。まだ子どもなんだなと思った。おしゃべりのはじめはやはり震災の時どうしていたかだった。遠野の被害はさほどなかったが、停電があったという。すべての電源が切れた時、困りはしたものの、かえってその静けさに驚きとある種の心地よさを感じたぐらいだったという。3日後に電源が復旧した瞬間、電流のバシバシという音にむしろびっくりしたという。わたしたちの暮らしが、いかに電力とガソリンに頼っているかを身にしみて感じた体験だったと敏江さんは穏やかに話してくれた。遠野は震災後、海外から派遣される医療団体や自衛隊などの拠点になったという。これまでは観光客を対象としたサービスばかりを考えていた地域が、震災後一転してボランティアの方々や救済活動にかかわる方々などの受け入れで、これまでとは違った需要と供給が求められるようになった。観光を目的としないさまざまな人々が来ることで、新しい風が吹きはじめているような気がしていると敏江さんは言っていた。被災地からは比較的近いとは言え、遠野に暮らす人々にとって被災地は東京と同じように遠く、どこかで起きた大災害のようだったという。それほど遠野は震災直後の影響はあっても、すぐに日常を取り戻した地域だったことがわかる。今後、遠野は復興の拠点的な地として大きな役割をになっていくのだろう。<br />
茜ちゃんはおしゃれなメガネをかけた中学生になっていた。来年の1月に8日間アメリカでホームステイをすることが決まった話やバレーの発表会のこと、将来は翻訳家になりたい夢など、おっとりとしたていねいな口調で話してくれた。のびのびとそして芯のしっかりした素敵な人に成長していることがとても嬉しかった。帰る30分前ぐらいに仕事場からご主人の英一郎さんも駆けつけてくれた。敏江さんはお昼に遠野地方のすいとん「ひっつみ」を作ってくれていた。野菜と小麦粉の生地をひっぱてちぎったような麺が入っていて、だし汁がとてもおいしい。おかわりもした。英一郎さんは無農薬で今年から栽培してみた豆（小豆、白インゲン豆、大豆）のデザートを作ってくれていた。ゆでた豆をはちみつとヨーグルトであえ、シナモンを入れた体によさそうなおやつだった。こうして半日、温かい家族と再会し薪ストーブにあたりながら過ごしている間、突風が吹く中ジンガロウはたて髪をなびかせながら馬屋から顔を出し、じっとこちらの様子を見つめていた。いや見守っていたのかな。<br />
遠野を3時過ぎの列車に乗るために、ハンドルがとられるほどの強い風の中、車を走らせて駅へ戻った。到着すると釜石線が強風のため運休になったと駅員さんから知らされた。50分待って代替え運行のバスに乗り、輝ける夕焼けの空、新花巻へ向かった。この輝きの空を忘れずに、復興を心より祈りつつ......。</p>

<p>岩手の旅は<a href="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/8/" target="_blank">岩手雑感</a>に記録があります。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1221.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1221.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<small>川の駅産直よこたの外壁に</small></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1230.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1230.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1232.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1232.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<small>この道の先に希望の道が開かれますように</small></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1245.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1245.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/12/post-187.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">岩手雑感</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 11 Dec 2011 21:48:48 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>『ろうそくの炎がささやく言葉』朗読会　岩手県気仙郡住田町にて</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1225s.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1225s.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<small>陸前高田市横田町　川の駅産直よこた　すぐ近くの村を歩いてみた</small></p>

<p>今年の6月、勁草書房から刊行された『ろうそくの炎がささやく言葉』（菅啓次郎・野崎　歓編）は、筆者自らあるいは、さまざまな方たちの朗読による刊行記念イベントを各地で行ってきた。今回で3度目の参加になる。参加するごとにたくさんの学びがある。1回目は、震災後間もなく、まだ自分自身がもんもんとした心持ちの中、ろうそくの灯火だけで、書かれたテキストさえあれば読むことができる。電源が喪失しても、書かれた言葉にはそんな力があることをはじめて知った。2回目の参加は「朗読」そのもの、もしくは声に出して読むことの意義を深く考えさせられる会が、東京のArt+Eatで開催された。朗読を専門とされる方とひとことで言っても、盲人を対象とされる方や観客を対象とされる方とでは、読み方の技法が異なる。また声質によってテキストの世界は大きく変化する。自分で朗読をしている時でさえ、目で活字を追って読んでいる時とはちがう世界感が生まれてくることがある。この本を刊行するきっかけとなった3月11日の震災をゼロ地点にして、それ以降それぞれの筆者が立たされた境遇、対する思いなどによせて作られたものだ。今回は被災地に近い住田町で、被災された方々と共に集って、あらためて朗読を聞く機会が与えられた。そして、この夜ケセン語の聖書朗読を生まれて初めて聞いた。力強い音に驚きを覚えた。五島列島で見かけたキリシタンの方々の姿に通じる土着信仰的なものを感じたりもした。<br />
朗読者は、翻訳家の柴田元幸さん、詩人の菅啓次郎さん、詩人のぱくきょんみさん、作家の堀江敏幸さん、医師でありケセン語訳聖書の翻訳者（気仙沼固有の言語）山浦玄嗣さん、合間のお話に、この本の表紙を飾られたダゲレオタイプ技法の写真家新井卓さん、そして勁草書房で編集にあたった関戸詳子さんというメンバーだった。定刻30分前にもなると、どこからともなく人々が集まってきて、あっという間に会場は60人ほどだろうか、席が埋まっていった。隣接する陸前高田市、遠野市、大槌町などからも参加された方がいた。わたしの隣の若い女性は住田町の方だった。朗読されたテキストはこの本の中からだけでなく、筆者が準備されてきたものもあった。ぱくきょんみさんは『そのコ』の中ら「わたしは、しない」というすべて否定形で書かれた詩を一編と『ろうそくの炎がささやく言葉』の中から「この　まちで」を朗読された。「この　まちで」を初めて聞いたのが6月の朗読会。「わたしは　このまちを　しっています」からはじまるこの詩は、見慣れた三角屋根の家にしらないおんなのこがまりを投げる前に「ぽーん、ぽーん、ぽーん」と、地面をついているシーンがある。「ぽーん、ぽーん、ぽーん」とはずむまりの音の部分がなぜかわたしの心に響いていて、なんでもない時でも「ぽーん、ぽーん、ぽーん」と心のなかで思い出したりする。ご本人にはお話していないけれど、浮かんでくる絵がある。それは、長谷川鄰二郎の「時計のある門」だったり、「荻窪風景」だったりする。鄰二郎の絵を見た時、無音の世界を感じた。時がどこかで止まってしまったような、連続する暮らしを一旦切断して、ある瞬間が切りとられたような、そんな感覚を覚えたのだった。「この　まちで」を聞きながら、まるであの絵に伴奏がついたように調和して、わたしの心の底からイメージした「この　まちで」の詩の世界が立ち上がってくる。<br />
菅啓次郎さんはこの日もご自身で書かれた「川が川に戻る最初の日」を朗読された。3年間住んだソノラ砂漠から生まれたテキストだ。わたしはこのテキストのなかで毎回うなずく箇所が決っている。<br />
「救われたのは、心だった。いま、日本の都会での毎日の暮らしに、どんなに暗い気持ちになったとしても、ソノラ砂漠の風景とそこに吹く熱い風を思い出すだけで、少しずつ元気を取り戻す。」「雨の匂いがまた強くよみがえる。夕方の光りの中で、年に一度の、名のない、単純なよろこびにみちたお祭り騒ぎが続く。<br />
　それをぼくは「川が川に戻る最初の日」と呼んだ。土地と、雨と、植物と、動物と。過去少なくとも数万年にわたってこの場所で年ごとにくりかえされてきた、すべてが完璧な、晩夏のある夕方だ。」<br />
ちょうど自分の仕事にからめて、今また星野道夫さんの『旅をする木』を再読している最中だ。この旅の道中も列車の中でこの本を開いていた。以前にもきっと同じ箇所で同じように共感を持って読んだはずのページの角が折り曲げられていた。それは「もうひとつの時間」というタイトルのエッセイだった。ある人から自分が見た壮大な自然の風景を愛する人にどう伝えるだろうかと聞かれた。その人は「自分が変わってゆくことだ......その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思う」と言ったという。人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世界へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。（一部抜粋）<br />
こうした体験が一時的にでもあれば、人はそれを「もうひとつの時間」として想像することができる。たとえどんなに殺伐とした仕事環境にいたとしても、どんなにかけ離れた日常の暮らしを送っていたとしても、どんなに不幸せだと思っていたとしてもだ。星野道夫のことばは最後にこうしめくくっている。<br />
「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは天と地の差ほど大きい。」<br />
わたしは菅さんが書かれたテキストを聞いているとこの「もうひとつの時間」を一瞬体感することができる。逃避でも非日常を追うのでもなく、現実に自分がいま体験している一方で地球のどこかで、宇宙のどこかで「もうひとつの時間」も存在していることを意識できるのだ。想像力とはただ何かとっぴなアイディアを生み出すためのものではない。むしろもっと日常の中で、その日々を生きる生命力を支える力のひとつなのだと思う。わたしたちは自然界からその力を養い育てることができる感性を与えられている。そしてこの想像力と感性が希望をもたらしてくれるのだと思う。<br />
大雨と強風の陸前高田の海岸線近くまで行った。ほぼ片づけられた瓦礫やゴミの山は物質社会の複雑さを物語っていた。ぼんやり佇んでいれば地鳴りのような余震もまだ体感する。亡くなられた方々のご冥福を祈ると共に、地球の威力がはかり知れないということをある意味具体的にはかり知る体験の旅だった。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/12/post-173.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 05 Dec 2011 22:19:19 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>霧の但馬　その3　神秘の里　柤岡 （ケビオカ）</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1135.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1135.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>柤岡 （ケビオカ）という地名の響きからして何かあるにちがいないと直感した。友人の知人に豊岡市経済部でお仕事をされている新田佳代さんがいる。新田さんから以前に訪れた柤岡の集落で、日本みつばちを飼われている方と出合った話を聞いたそうだ。さっそく知らせてくれた新田さんのブログに掲載されていた棚田の風景は、まるで南米大陸のどこかのような神秘にみちていた。柤岡は日本海側特有の気候に類似し、間もなく雪の季節を迎えるという。その前にと予定を空けて、新田さんが同行してくださることになった。なんとも心強い！早朝に友人が豊岡市内の宿泊先まで車で迎えに来てくれた。そこから約1時間ほど走って神鍋高原の道の駅に着いた。その道のりに偶然ながら、植村直己冒険館の前を通過したことをわたしは決して見逃さなかった。たまたま読んでいた大島育雄の本に植村直己との出会いと別れが書かれていて、わたしが小さい時に知った冒険家の話がこんなつながり方をするのかと、懐かしんでいた矢先だった。植村直己がこの地方出身だったとは驚いた。<br />
道の駅で待ち合わせた新田さんと、その友人の藤木恭子さんの車に乗り合いにさせてもらい、さらに山の奥地へと向かった。柤岡 （ケビオカ）に向かうにつれて、雨足が強くなってきた。山と山の合間から霧が沸き立つように見える。いよいよ新田さんが名付けた「但馬のマチュピチュ」の気配がしてきた。高原に美しい棚田が点在し、雑木林は人の手がていねいに入っている。こんな奥地になぜ美しい集落が存在するのだろうか。急勾配の道を登ると家々が並ぶ村の中心に到着した。「ここから、まだ急な道を登って行きますからね！」と、元気いっぱいの新田さん。一歩づつ登るごとに、周りに隣接する山が見えてきて、突然、開けた畑が現れた。「あー、宅見さん！待っててくれたんですか」。新田さんが畑を見回る老人に声をかけた。実はわたしは、そのこと以前に、断崖に切り開かれた畑の美しさに圧倒されていた。呼吸も整わないまま、「うわぁー」と歓声をあげて、すっかりその風景に見入ってしまった。その土地の地形にあわせた形で広がる段々畑。その向こうの谷には霧がもやもやと漂っていて、さらに後ろの山の稜線を見え隠れさせている。いたずらな悪天候の演出が、この場の神秘さをかえって絶妙にするのだった。雨だというのにわたしの心はこの魔法にかけられて、一気に晴れてしまった。<br />
宅見さんのお宅はとてもすてきだった。里山に昔からあるようなごくごく一般的な日本の家屋で、長年修繕を施しながら暮らし続けてきた家のにおいがした。家の前 には薪が整然と積まれている。間もなくやってくる冬に備えた燃料は必然のこと、きっとすぐに取れるように玄関のそばに位置しているのだろう。庭の柿の木に実が少しなっていて、重たい灰色の空に朱色の実が鮮やかだった。掘り起こしたままの自然薯やムカゴ、朽ちた植物までもが雨に濡れて一段と色濃くしっとりとした雰囲気を醸し出していた。玄関先で奥さんが入れてくれたコーヒーを飲んでから、傘をさしながら宅見さんの案内で畑周辺の山道を散策した。宅見さんはこの辺は山の水を引いているから 水がきれいだと言っていた。わさびの栽培もできるという。水は冬は温かく凍らないのだと話してくれた。冬の間は雪が二階建ての屋根まで積もるので、雪下ろしが大変だと言う。雪景色の集落を一時的に想像すれば、深閑とした美が浮かび上がってくる。しかし、ここで暮らすには経験に基づいた確かな知識と技術なしにはそう簡単にはいかない。<br />
宅見さんの運転でさらに宅見さんのお兄さんのいる山へ登って行った。お兄さんは炭焼き小屋を持ち、秘密基地のような小屋も作っている。その小屋の周りに自然状態に近い菜園があって、よく見ると豆やオクラ、パプリカなどが植えられていた。大きなオクラの種を「やるよ」とぽーんとなげてくれた。種の造形はいつ見てもすばらしいと思う。嬉しい山のお土産ができた。<br />
宅見さんの兄も山のあちこちに、日本みつばちの巣をしかけてまわっていると言う。基地下の倉庫にある使い古しの巣箱をいくつも見せてくれた。巣箱に規則的な形はなく、遠野や熊野地方でも見かけた、木の幹の洞を利用した巣もあれば、山で集めた素材から作った箱のようなものもあった。どの巣箱にもみつばちはもういなかった。今年は熊にずいぶんやられたり、みつばちが少なくて、蜜は採れなかったという。日本みつばちは非常に神経質で、自分に合わない環境だとすぐどこかへ出て行ってしまう。半自然状態で飼っていても、そこにずっと居着くとはかぎらない。この地域で日本みつばちがいなくなった原因はすぐには分からないが、おそらくこんな里山の奥地からこそ生態圏のバランスの崩れが表面化してくるのだろう。日本みつばちは何を警告しているのだろうか。<br />
それからしばらくの間、お兄さんの基地の中へ上がらせてもらい、窓から見下ろす風景や辺り一帯の地図を見せてもらった。宅見兄のランドマーク地図には、蜂箱をしかけたところや樹木、そして「熊穴」が記されていた。この土地で生きるということは熊との共存、あるいは、すれすれのところで成立している縄張りの均衡なのだろうと思う。生きる場によって人が必要とする情報は実にユニークで多様だ。新田さんがいろいろな形で日本みつばちの話を質問しても、話のおちは必ず「熊話」の武勇伝になってしまう。それほど宅見さんとみつばちと熊はこの山で密接な関係で結ばれているのだと思う。<br />
宅見さんのみつばちの飼い方は「飼う」という行為よりは、ハンティングの性格が強いとわたしは思う。狩猟感覚で巣をしかけ、気に入って巣に入ったみつばちはほぼ自然まかせの放任状態で住まわせ、時期になったら巣を割って採蜜をする。そのための特種な道具類が作られているほどの伝統養蜂というよりは、生活の中の身近な出来ごとの一部として半娯楽的に親しんでいるように感じた。たしか、遠野市立博物館の宇野理恵子さんの文献であったと思うが、狩猟と娯楽の中間的な位置づけの養蜂は山間部に多い。<br />
こうした暮らし向きは時代と共に消えて行こうとしている。宅見さんたちのような里山との共存生活には、持続可能な有機的な循環----これをわたしは"良い気"と呼んでいる----が流れていると感じた。<br />
そろそろ遠くの但馬のマチュピチュに霜が降りている季節（ころ）だろう。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1060.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1060.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1105.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1105.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1183_s.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1183_s.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>さすが、新田さんはお話上手な方だと思いましたが、この日のブログのお話は臨場感が溢れていて地元の空気感が伝わってきます。愉快愉快！<br />
「<a href="http://argentinamaruko.blogspot.com/2011/11/blog-post_09.html" target="_blank">ケビのおじぃと熊の森</a>」</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/3-6.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 26 Nov 2011 12:08:22 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>霧の但馬　その2 「ハチだけの仕事」の上垣さん</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1043.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1043.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>わたしはみつばちをまだ飼ったことがない。いつか必ず......と、ゆっくり準備や心づもりをしているうちに10年近い年月が立った。今年の冬あたりはどうかと漠然と考えていた矢先に震災が起きた。そして福島原子力発電所の事故はわたしの小さな夢も奪っていった。3月の下旬、この地ではもうみつばちは飼えないかもしれないと落胆した。みつばちは花の蜜源を求めて飛んで行く。花は変わらず咲きはするけれど、放射能を浴びた花の蜜をなにも知らずにせっせと巣へ運ぶみつばちたちを喜んで見ていられるだろうか。そんなことを毎日考えて悲しくなっていた。もしかしたら、採蜜を目的としなければ飼えるかもしれない。しばらくは状況判断が必要だろうと思っている。10年思い続けてきた夢をそんなに簡単にあきらめるほど潔い方ではない。よい形でよい時に飼える日がやって来るはずと信じている。きっと必ず！<br />
そんな思いを巡らしているさなか、但馬のみつばちツアーが実現した。麦畑自然農場を運営されている上垣さんのことは「霧の但馬　その1」でも書いた。養鶏だけでなく、西洋みつばちの養蜂も農業の傍らでやられている。これだけの技があれば、どんな所でも生きていける。上垣さんは自信があるとおっしゃった。自分たちの食べるものは自分で作れということだと思う。<br />
さて、上垣さんの採蜜したはちみつには「ハチだけの仕事」というラベルがビンに貼られている。なんの混在物もない、みつばちたちが集めた蜜だけのはちみつという意がこの一枚のラベルにこめられている。世の中の市場にどれだけみつばちが集めた蜜だけの「はちみつ」が存在するだろうか。わたしが時々お世話になっている養蜂家のはちみつを初めて口にした日のことを思い出す。その時から、みつばちだけでなく、みつばちが生み出す成果物にも関心が湧くようになった。みつばちが何百往復もしてやっとスプーン一杯のはちみつが採れることを知って、理にかなった貴重な技に神秘と畏敬の念を抱かざるをえなくなった。みつばちの生態を深く知れば知るほど、システム化された社会と合理的な巣の構造や環境に魅了されていく。そこには究極の美があるとわたしは思っている。一度この世界に虜になった人は知恵の実ならず、ある種のユートピアの幻想を追うことになる。その日から「夢追い人」になるのだ。今日、出会っただけなのに、みつばちと養蜂を介して、同じ深度と共感を分かち合えるからみつばちとは不思議な存在だ。<br />
昼食中は無口な男子と思っていた上垣さんの長男河大くんが、3時のおやつにと出してくれたデザートは絶品だった。かぼちゃプリンとシフォンケーキ。もちろん玉子はあの鶏たちからの贈り物。やるなー、上垣家！<br />
冬の休みに入ったら、上垣さんの玉子でわたしもレモンシフォンケーキとはちみつでパンデピスでも焼いてみようかなとひそかにレシピをながめている。<br />
「ハチだけの仕事」はみつばちが細菌によってかかりやすいアメリカ腐蛆病に、まずかかりにくい健康なみつばちを育てることに専念されています。感染予防のために抗生物質などをみつばちのえさに混入させないオーガニックなはちみつです。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1039.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1039.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1048.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1048.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1203.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1203.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>麦畑自然農場のむかしむかし卵とハチだけの仕事のなどの<a href="http://www.iwaidou.jp/kodawari/uegaki.html" target="_blank">お問合せ</a>はこちらへ</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/2-2.html</link>
            <guid>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/2-2.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 25 Nov 2011 17:54:21 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>アロマの森　小径の散歩</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC0108.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC0108.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>霧の深い森の中をなんどか歩いた経験がある。霧は先が見えないし、憂鬱でうっとおしい、せっかくなら澄み渡る空の下を歩きたいと思う方が大半だろう。1年半ばかりサンフランシスコで暮したわたしは、肌寒い霧の夏の季節を過ごした経験がある。夏だというのに暖炉に火をくべて、ルームメイトと長い午後のおしゃべりをした記憶がよみがえる。もしかするとこんな小さな体験の繰り返しが、霧をありがたく思えるようにしてくれたのではないかと思う。包まれる体感は人それぞれだろう。母親の体内に宿ったときの感覚を擬似的に再体験していると言う人もいる。わたしの場合、蚕が生絲の繭のなかに守られて過ごしているイメージを喚起して、それが脳のどこかで安心感につながっているのだろうか。なにしろ霧に包まれることに独特の反応と心地よさを覚えるのだ。<br />
福島原子力発電所の事故が起きてから8カ月が過ぎた。いまだに解決をみない現状は深刻だ。ひとつの原子力発電所の事故で国内外の広範囲に放射能汚染をばらまき、長期に渡る生命への危機を余儀なくされたわたしたちの未来は、一体どんなことが起きるのだろう。わたしは海岸沿いや森のなかを歩くのが好きだったのに、3.11以降すっかり自粛モードになってしまった。自然のなかへ行けば、見た目は変わらずに美しいのだろう。なんども言うがそれを素直に喜べない自分がいる。この思いが払底されないうちは、無理に近づかない方がいいと思っている。<br />
先日、1年だけ仕事の同僚だった友人が、アロマセラピストになったことを知った。<a href="http://www.aroma-metsa.jp/index.html" target="_blank">アロマテラピールームmetsä（メッツァ）</a>を開業させた。metsäとはフィンランド語で「森」という意味だそうだ。結婚報告後、ある方からお返事でいただいたことばにあった、「信頼の場」になればと、屋号を決めたそうだ。彼女のblogに綴られているそのことばはとても深い。<br />
「植林など人間が手を加えたものは林<br />
自然に生まれ、出来上がっているのは森<br />
いまその森が信用されています」<br />
仕事先を退職される前に、わたしたちひとり一人へお礼のしるしにと、彼女からハンドマッサージのプレゼントをいただいた。やさしく心のこもった贈り物だった。わたしは万年の凝り性で、おそらく原因は血流の悪循環ではないかと思っている。軽い運動や気分転換でストレスを最小限にとどめることをしていれば、おそらく解消するのかもしれない。でも、実際の生活はそれほどの余裕はない。おまけにいまは年老いた両親の世話がはじまり、仕事のほか買物や料理に日々追われ、読書やわたしの活動すらじっくりとできなくなった。そんなこともあってか以前にも増して、アロママッサージを受けに行くようになった。施術者は技術のほかに内面が大事ではないかと思う。病んでいる人の心をとらえ、頑な気持ちも一緒にときほぐすような、心身のケアと向き合う仕事ではないかと思う。一時期、独学で精油を求め、希釈をしたり、化粧水やビーワックスでクリームを作ったりしたことがある。自然療法に多少慣れ親しんでいたこともあってか、科学療法で悪い部分を取り除くよりは、大病でないかぎり、わたしは自分の好きな香りに包まれるアロマテラピーを優先している。さっそく友人に連絡をとりmetsäで久しぶりの再開を喜んだ。<br />
今回は初のフェーストリートメントをボディとあわせてお願いした。ゆったりとオイル選びの時間を持ち、わたしが森の香りが好きだという話をしながらアロマの小径へ散策がはじまった。信頼をよせている人にお願いできるのは、心の安心が倍増する。ふっと気がゆるんでお任せ状態になる自分がわかった。木製の施術台で頭の位置を丁寧に見てもらったこともとても新鮮だった。顔周りが香りをいちばん感じることができるのでと、柑橘系の土佐小夏と樹木系の黒文字を選んでくれた。ふわっとした脱力感で時々眠気がおそってくる。現実の森へしばらく行かない時はこうして二次的な森の世界を味わい、深く深呼吸する時間が大切だなと思う。施術が終わって白湯をいただきながら、彼女の話に耳を傾けた。<br />
3.11を境によりこの仕事への思いが深まったという。特に自分で切望していたわけではないが、震災後、埼玉の方へ避難されてきた被災者の方々にボランティアでアロマテラピーをすることになった。それを機にいわき、郡山と活動をしたという。1年前ハンドケアをしてもらった時からこうしてプロフェッショナルになった今は、心構えもそして技術も磨かれた感があった。たまたま、勉強したことがすぐ人の役に立ったことが彼女の喜びと自信につながっているように思う。自分から率先してボランティアをしたのではなく時の流れのまま、のびやかに経験の輪を広げている姿はなによりも彼女の人柄と才覚ではないかと思う。自然体でつながっていく、そんな感じがわたしにも良い気を流してくれているように思える。彼女の肌も顔もとても美しく輝いているなと思った。これからずっとお世話になりたい。そしてこんな再開に心より感謝！自分の体ひとつで何か人のためになる技術、わたしもそんなことを身につけてみたいなと新しい刺激を受けた夕べだった。<br />
metsäは秘密にしておきたいようなプレイベートなアロマテラピールームですが、なにしろ人柄がすばらしいアロマセラピストです。ご関心のある方は、ぜひ、安心してお訪ねくださいね。とくにマタニティーの方のためのマタニティーメニュー、彼女は大歓迎だそうです！体に命が宿った特別な時期を共に共感できるすばらしいお仕事ですね。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/post-170.html</link>
            <guid>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/post-170.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 19 Nov 2011 17:58:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>霧の但馬　その1</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1026.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1026.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>友だちが豊岡市へ引っ越して数ヶ月後、地元に養蜂家がいることを知らせてくれた。お一人は西洋みつばちを、そして、もう一方は日本みつばちを飼っているという。兵庫県に属する但馬地方は一度も足を踏み入れたことのない場所だった。中国地方を境に日本海側に近いこの地域はいったいどんなところなのだろう。期待を胸に週末の早朝、羽田から伊丹経由でプロペラ機に乗り換え、コウノトリ空港へ飛んだ。あいにく、どんよりした曇り空。やがてぽつりぽつりと雨が降り出した。<br />
出迎えに来てくれた友人が運転する車の中から何層にも重なる小山の谷間にたまる霧が見える。小さな集落を通り抜け養父市へ向かった。過去、灰塚に一時的に住んだわたしにとって、この風景はめずらしくはなかった。麦畑自然農場を営む上垣敏明さんのお宅へ到着したころには、そろそろお昼時だった。玄関先に顔を出してくれたつるちゃん（居候兼の自然農業研修生とでも言っておこう）に案内されて家に上がった。食卓には鮮やかな緑のとれたて春菊が盛ってあった。「春菊を生で食べられるんだよ」と友人に言われてひとつまみすると、味わったことのないようなやさしく柔らかな春菊だった。レタス、大根、ねぎ。どれをとっても食材そのものだけで十分なご馳走だから、余分な調理や味付けはほとんど無用に思えた。朝の農作業を終えた風呂上がりの上垣さんは、ロマンスグレーの髪に赤いジャージの上着が似合う人だった。杓子定規なご挨拶はぬきですぐさま本題に入る、そんな方だった。<br />
無農薬野菜のこと、食全般にかかわること、健康について、そして日本がかかえる老齢社会と医療問題、社会保健制度など話はいきなり深かった。麦畑自然農場をはじめたぐらいの方だから、信念をしっかりと持っているのは当たり前のことだとわたしは思った。午後に向かうにつれて雨足はひどくなってきた。止む気配はないので、まずは農場へ案内してもらうことにした。<br />
「これはね、僕が一番自慢にしている鶏小屋。これさわってみて、温かいから」と、鶏たちのえさを触らせてくれた。ほんわり温かみがあって糠床のようなかおりがたっている。ずいぶん前に天然酵母パンに夢中で酵母から作っていたころblogに書いたことがあるが、人間の体温、みつばちの巣箱内の温度、酵母の発酵温度などと共通する32度から36度前後のぬくもりをこのえさにも感じた。直感的にこれはすばらしいと思った。えさを触った瞬間にそこにこめられた情熱を感じずにはいられなかった。<br />
上垣さんにいただいたチラシによると、国内産の小麦をベースに米、ぬか、大豆、カキガラ、魚粉にEM発酵の自家配合飼料にして与え、緑飼は完全無農薬の野菜をたっぷりとやっているという。EM発酵が気になったので、少し調べてみた。ひとことで言えば有用な微生物たちがこのEMの正体らしい。乳酸菌、酵母、光合成細菌といった善玉の微生物をバランスよく共生させた資材なのだそうだ。家畜の飼料はもとより、園芸や美容、最近は生ゴミの有効利用や腐敗水の改善など環境問題でもよく取りあげられているものだった。上垣さんのえさはこのEMによって発酵が助けられたいわば発酵食品のようなものだ。だから平飼いの飼育小屋も臭くないという。「鷄小屋に行ってみていいですか」と聞くと、上垣さんは喜んで「いいよ」と中へ案内してくれた。小屋の中へ入ると鷄たちは自由に動き回っている。高い止まり木には凛々しい雄鶏がこちらを見ている。良い環境で飼われているからなのか、神経質な感じもなく鷄たちは実にのびのびとしているように感じた。あまりに立派できれいな鷄たちで、目線を同じぐらいにしてカメラにおさめようと必死になっていたら、コツコツと指に振動を覚えた。見るとくちばしでこちらに向かってタックルしてくる人なつっこいやつがいるではないか！30分ぐらい小屋の中にいただろうか。鷄も見飽きないし、だいたい小屋下の床からふんわりと放たれるにおいが心地良いのだ。<br />
こんな人が育てる野菜やみつばちは間違いなくすばらしいとわたしは確信した。<br />
鷄とひとしきり遊んでから、すぐそばに置いてある蜂箱を見せてくれた。雨の日なのでみつばちは巣の入口でもごもごとしている。こんな姿にも彼女らの意思表示を感じずにはいられない。みつばちの巣箱の上に雨で落ちたアカシヤの葉があまりにも美しい色彩だった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1037.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1037.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC1042.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC1042.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>本題の上垣さんと養蜂のお話はつづきで書いて行きます。<br />
但馬のフォトアルバムを<a href="http://www.facebook.com/media/set/?set=a.2435269774270.127264.1627497630&type=1&l=9d2463f825" target="_blank">facebook</a>にアップしました。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/post-169.html</link>
            <guid>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/11/post-169.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">草の根っこ</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 13 Nov 2011 20:42:56 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>日本人イヌイット　北極圏に生きる</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="DSC1022.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/DSC1022.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>矢川澄子さんと幼いころから母娘ともに交流の深い友人から、昨夜短いメールが届いた。矢川澄子と親しかった者たちの記念会が黒姫であったようだ。すべての今日の家事が終わってほっとひと息する時間に、このところ書棚の奥の方で眠っていた彼女の本をぱらぱらと開いてみた。最近わたしが読んでいる本やUstreamなどで関心をもって見聞きしている世界とはだいぶかけ離れていて、今はスイッチが入らない。一見まったく関連性のないものだけれど、わたしたちは日常生活のなかで分野や表現方法の異なるものをこうして同時多発的に受け取っている。それをいつでも選択したり切り捨てたりしながら、これまでに構築された考え方につけ加えたり、切り替えたりする。意志や価値観、判断はこうして例えば70年ぐらいの人生のなかで、忙しく変換をとげる。<br />
先日NHK BS プレミアムで放映された「日本人イヌイット　北極圏に生きる」は心が熱くなる番組だった。わたしはイヌイット族の生活から産み出される作品に関心をもっているが、このドキュメンタリーを通して民族を超えた、極限に生きる人間の証明に強い衝撃と胸騒ぎのようなものを感じた。わたしの体のどこかに潜んでいるプリミティブ願望をくすぐるのかもしれない。槍一本で自分より数倍大きな野生動物を捕らえたり、狩猟に必要な服はホッキョクグマ、アザラシ、ウサギなどの毛皮から作ったり、氷原を渡る犬ぞりを管理するシーンが、移り変わる太陽の位置を背景に印象的だった。そこには生きるための原点と生き続けるための知恵と精神がある。1972年、念願のグリーンランド北西部にあるチューレ空軍基地に降り立った大島育雄を出迎えてくれたのは、探検家の植村直己だった。大島が大学時代に在籍していた日大山岳部は、早くから極地調査や遠征をおこない、東グリーンランドのフォーレル峰登頂やグリーンランド横断などの成果をあげていた。そんな経験を持つOBたちから写真を見せてもったり、話を聞かされているうちに、大島は極北に深い関心を向けるようになった。会社勤めをしながら資金稼ぎや北極関連の資料を片っ端から集め、独学で勉強をはじめた。名古屋鉄道の「リトルワールド」という人類学博物館からイヌイット民具の収集を委託され、ようやく1年間滞在のめどが立った。そして南極にある昭和基地よりも極点に近い、極地独特の厳しい環境を求め、犬ぞりの習得や猟で生計を立ている唯一のイヌイット族が住むシオラパルクの村に住みつくことになった。大島はその後、イヌイットの女性と結婚し一男四女の父となる。今では子どもたちも独立して、5人の孫に囲まれる現役狩猟家だ。長男海（ひろし）は3児の父親で、息子のイサム（撮影当時8歳）と親子3代の狩猟を中心とした1年の記録を、彼ら自身にドキュメントしてもらった作品が「日本人イヌイット　北極圏に生きる」だった。おそらく海が幼い頃、父大島から時をみて連れ出されたであろうある日の猟を、今度は息子のイサムに同じように教えはじめている。地球温暖化の影響で海面が凍りはじめる時期が遅くなったという。もともと海は町で大工をしていたが、「自由がない」と、職を辞めて父と同様に猟師の道を選ぶ決心をした。果たして息子イサムの時代まで、このまま狩猟ができる環境が残るか、そしてイサムが狩猟に興味を持つかは誰にもわからない。しかし家族で生活を続ける以上は、ある年齢になれば男児は立派に猟の手伝いをし、一緒に家族を支えていく一員になる。父親の役割と息子との関係ははっきりしている。生きる目的もはっきりしている。自分で食べるものは自分で穫る。なぜ食べるのかはこの暮らしを見ていればいたって明快で、「命をながらえ生きるため」なのだ。だから自分で獲物を獲得した喜びは大きい。これでまた命がつなげるという究極の喜びに直結している。そして、その恵みをもたらしてくれる目前の大自然に畏敬の念を払うのだ。<br />
大島はインタビューのなかで実におもしろいことを言っていた。「ここではハンティングで異様な高揚と興奮を覚えるから娯楽は無用だ」と。大島はこの生き方が好きで好きで仕方がないという。好きでなければ、狩猟で生計をたてることはできないと言う。<br />
今、自然エネルギーに注目しているわたしにとって、彼らの生活思想はもっとも洗練された形に見える。こんな極限の原始に近い暮らしをしている家族を見ているかたわらで、最先端技術を駆使するIT起業家の起業の精神や経営ヴィジョンなどをインターネット経由で聴講し勉強もしている。起業家も大島もわたしの目には根底に同じような志や判断力を備えているように感じる。大なり小なり時代や環境の異なりはあっても、生きながらえていく現場においては、いくつになってもいつでも感覚を研ぎ澄まし、判断をし、バランスを保つ心身の育成が必要なのだと思う。その習得意欲はわたしが持ちつづけることであり、主体的に行動することなのではないかと思う。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/10/post-168.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">いっぱいのきもち</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 23 Oct 2011 22:05:36 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>Appleの神さま、キッチンの神さま</title>
            <description><![CDATA[<p>Appleなくして今のわたしはないなぁ。。。昨日は台所に立ちながら、そんな思いがずっと頭をかけめぐった。Steve Jobsの冥福を祈りつつ...。<br />
8月の末に母もとうとう倒れてしまった。ここ2、3年の間に両親の老いを確信的に感じはしていたが、まだもう少し大丈夫だろうとあまり手出しもせずにほっていた。両親共が具合を悪くして、見て見ぬ振りをしてきたことに、いよいよ手を差し伸べる時期が来たのだろうと自覚した。ほぼ視力を失いながらも、慣れた台所まわりをやっていた母にかわり、日々の食事の準備をするようになった。そうやってまじめに家事と向き合うようになって、生活空間のなかにやはり老いを感じる細々とした点に気づく。器用な母がこんなささいなことができなくなってしまったことへ、自然の摂理とポジションの転換を漠然と考えたりする。親子はいつかは逆転するものなのだろう。<br />
この1カ月で「おかあさんを交代します」宣言をした。不思議なことに台所の権限はわたしになり、買物から道具や食器類の使い勝手を工夫し、不要なものは捨て、今の生活に必要なものを少し買い替えた。母は「へぇー、そうすると場所が広くなるんだ」とか「わかりやすくなった」と大喜びだった。自分が長年便利と思い込んでいたことは、実は「慣れ」だけであったことに気がついたと言う。「人がやってくれるとわかることがある」とすんなり新しい勝手を覚えはじめている。<br />
とにかく清潔にそして新鮮なものを新鮮なうちに食すことを心がけている。料理本やレシピは山ほどあるのだが、日々の食卓は、素材と体調を自分の感覚で察知して、むしろ手の向くまま、気の向くままがいい。きばって大仕事をすると続かない。長く命をつなぐ食とは案外そんなことの繰りかえしなのではないかと思うようになった。わたしはこの控えめな、裏方の創造と実践の場が案外気にいっている。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/10/apple.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 07 Oct 2011 08:27:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>自然エネルギー財団の発足</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="DSC_0028.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/DSC_0028.jpg" width="420" height="353" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>夕暮れ時、東京のビルの谷間からのぼった満月はことのほか大きく美しかった。わたしの大好きな時期のはじまりが、この先の何十年、何百年もはたして同じようにわたしたちの地球におとずれてくれるだろうか。そんなことを思いながら電車に乗った。今日は仕事の休みをとって「自然エネルギー財団」発足のイベントに参加した。設立者は孫正義、代表理事に元スウェーデンエネルギー庁長官のトーマス・コバリエル、業務執行理事に飯田哲也などのメンツで構成されている。自然エネルギー推進の文脈では大文字の顔ぶれだが、あえてそうした中に、しかも日本で最初の財団誕生をしっかりと見ておきたいと思った。1日の講演やそこで学んだ詳細は、追々わたしの行動や考えのなかで消化した形でまた書いていくことにしたい。ただ、わたしはこの財団が公平な公共性に基づいていること、中立を保つこと、そしてまずは議論で終わらせず、実践にうつしていくことにおおいに期待をしたい。副理事の末吉竹二郎のことばが印象的だった。地球温暖化はこれまでいろいろな側面で問題視されてきたが、これを招いたのは経済ではないか。経済そのものの在り方を否定しているのではなく、その成長のしかたに問題があったからではないか。20世紀の形式的な成長の脱却から21世紀への持続可能な思考変換を強いられている。<br />
エネルギーシフトはまずは平和のために、それから誰にでも開かれていなければ意味はない。草の根芸術活動にしか信頼を持てなかったわたしが、福島原子力発電所の事故以来、政治も企業も芸術活動でなければと強く感じている。草の根芸術活動が非常にプライベートな活動とすれば、政治や企業はパブリックな活動でわたしはそのバランスの中に自分を置く必要があると最近感じるようになっている。<br />
孫正義の話術は魅力的だった。企業が失いつつある社会貢献の精神をこの場で宣言し、新しい展開を稼働させるための真摯な姿勢に共感を覚えた。これからたくさんの困難や失敗が待ち受けているが、この志をまっとうして30年後にはエネルギーシフトの土台ができていることをわたしは切に願っているし、これは誰かがやってくれるだけのものではもうない。わたしがその方向に賛同し、協力し、行動をおこすこと以外にはなにも始まらないのだから。みつばちの木箱にまたひとつ課題がふえた。わたしの残りの人生は生まれてきた地球に少しでも役に立つ行動を実現していきたいと思う。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/09/post-164.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 12 Sep 2011 23:25:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>父からの贈りもの　フェリックス・ホフマンの世界 </title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC0995.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC0995.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>「芸術家は、アトリエで筆と色で働いているが、それだけが仕事ではない。しばしば、寝ていても、かかわりあっているものだ。芸術作品は、病気と同じで潜伏期があるものだ。」これは、自らを商業美術家＝グラフィカーと称し世界的な絵本作家として親しまれているフェリックス・ホフマンのことばだ。スイス出身の彼は、抽象表現的な芸術作品に高い評価を置いていたものの、生計を築くためには具象の表現の世界に身を託して多くの教科書、本や装幀をてがけた。<br />
「思うに、地球はいまでも、仕事をすれば報われる畑だ。そして芸術は、いまだに具象を失ったものではない。」<br />
ホフマンはイラストの仕事のほかに、ステンドグラスや壁画も多く残した。このことは、パブリックに向けた意識の開眼につながっていく。個人が感じ、表現をし、ある一定の人々に知られ、伝わる。この工程では作家はほぼプライベートにちかい仕事になる（それらは私家版なども含まれる）。建築物として公共的に建てられたものに手を加える場合には、すでにある建築様式やテーマに寄り添うかたちで作品が制作されていかなければならない。プライベートとパブリックの両方の手法をこなせる器用さもグラフィカーという位置づけをしたからこそ、制作を納得して生涯続けられたのだと思う。大阪の伊丹市立美術館で開催中の展覧会でホフマンの原画や子どもたちのために作った絵本を見てきた。ホフマンの絵本ではっとするのは構図のすばらしさだ。子どもながらに「ねむりひめ」のいばらに囲われた城や城の階段をのぼる王子の絵に圧倒された記憶がある。大人になって見ると、原画の奥行きや余白の使い方には職人的なレイアウトがなされていると感じた。「七わのからす」のからすたちが生きて飛び出してくるような感覚を持ったのもこのホフマンの絵の力だった。色彩の美しさ、描く線と描かれない線。線の細やかさや大胆さ。基礎がしっかりした絵画にため息がでた。<br />
展覧会では、デンスビューレン小学校やシュレンゲルバッハ小学校（写真）の壁画の仕事を知ることができた。このシュレンゲルバッハ小学校の「小物箱」という作品は必見で、こんな学校にもし自分が通っていたら必ず虜になってぽかんと見とれてしまうような秘密の箱の世界なのだ。ホフマンはいったいグラフィカーだったのだろうか。わたしはこの展覧会で、グラフィカーの顔した芸術家の作品を見たように思う。幼いころから絵本を通してこうした作品に触れることができ、心から敬意と感謝の気持ちでいっぱいになった。ホフマンはみんなの父でもある。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/08/post-161.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 21 Aug 2011 21:24:28 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>アンドレイ・タルコフスキー</title>
            <description><![CDATA[<p>このところ久々のフィルムブームが起きている。このブームは5年とか10年に一度ぐらいの割合でわたしにやってくる。今年ほど劇場通いをしたのは稀なことだ。旅に出る気がしない分フィルムであてがっているような気がする。ソクーロフ監督の「モスクワ・エレジー」を見てから、もう一度タルコフスキー作品を見返そうと「鏡」のDVDを借りた。断片的なシーンは覚えてはいたものの、あらすじはほとんど記憶に残っていなかった。「鏡」はタルコフスキーの自伝をもとにしたフィルムだ。母親や妻と暮した回想シーンや幼いときに体験した火事の記憶がまるで鏡に投影されるかのように展開していく。それは鏡に映る自己の内面でもある。人は結局鏡に写さなければ自分を見ることはできない。そもそもの自分が今こう在ることは過去と切り離してはありえないのだということが冷ややかに伝わってくる。子ども時代に消えていった父、残された家族との思い出は感受性豊かな少年に感傷と不安の影を落としていった。やがて自分も父親になり、最初の妻と別れをつげる。子どもや妻に対する想いも当然あっただろうが、それよりはもう少し大きな宇宙観にたった内省と同じ境遇にあるものたちへの理解、それはもしかすると大きな意味での父への和解といえるかもしれない。以前にこうした感想は持たなかったように思う。美しい映像詩に象徴されるシーンを追うだけで精一杯だったのかもしれない。単に美しさだけを追求した映像作品というよりは、心象風景が緻密につくりこめられた作品の奥深さにあらためて感嘆の意を表したい。1日に繰り返し3度も見てしまったとは異常だろうか。<br />
「ノスタルジア」「サクリファイス」は「鏡」ぬきでは語れない作品だ。しかしこの2作は私的なものよりは他者へ向かってのメッセージ性が強いものになっていると思う。個人の「自由」と「表現」という意志を突き詰め、死を持ってまで芸術と対話したたぐい稀な才能の詩人だったと感じる。<br />
タルコフスキーを見てしまうと崇高な芸術の世界へと引き込まれてしまい、他のフィルムの芸術性がなかなか見えにくくなる。先日セミフ・カプランオール監督の「卵」と「ミルク」を見てきた。これで「蜂蜜」とあわせて3部作を見たことになる。それぞれの作品は父と息子、母と息子の日常をドラマ性をおびて描いている。「卵」は見終わったあと心地よいあたたかさが広がった。大学を目指す少女が聡明な女性へと成長していく心の過程が爽やかに写し出されている。トルコの暮らしや民族性も見えかくれした良質な小作品だった。「ミルク」と「蜂蜜」を先に見ていると「卵」のちょっとしたシーンの意味がつながるが、単独で見ても十分に内容を楽しめる。</p>

<p>楽しみにしていたタルコフスキーの"Bright, bright day"が届きました！</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="_DSC0983.jpg" src="http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/_DSC0983.jpg" width="420" height="279" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/08/post-160.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 10 Aug 2011 00:18:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>アレクサンドル・ソクーロフのフィルム</title>
            <description><![CDATA[<p>週末らしい週末を過ごした。土曜は紅さんと久しぶりのランチをしておしゃべりを楽しむ。日曜は少し疲れ気味だったけれど、この日を逃すと見れないアレクサンドル・ソクーロフ監督のフィルム作品をユーロスペースに見に行った。たまたま「モスクワ・エレジー」の回で、国立近代美術館フィルムセンター主幹の岡島尚志さんのトークショーがあった。テレビのアナログ放送が数時間前に終了したこの日に、タルコフスーを主題にしたソクーロフの35mmフィルムをわざわざ劇場に見に来た人たちは、フィルム映画という作品それら全ての芸術に対して尊敬と敬意を持った方々だとお褒めのことばをいただいた。今の時代は、自分が見たい時に見たいものを見れるようになった。それはそれで利点があるが、自分のあらゆる用事を後回しにしてでも映画館に足を運んでその時その場で集中して作品を見る行為がいかに大切であるかを教えていただいた。デジタルとアナログについての話をここで気づかされるとは思いのほかだった。そんなことをひとつも考えずにただソクーロフがとらえたタルコフスキーという目的で会場に向かったから、ひとつお土産をもらった気分だった。詳細ははぶくとして、岡島さんが言ったこのことばをここに記しておきたい。構成や撮影がそもそもすばらしくフィルムにおさめられ、フィルムがいい案配に焼かれ、そして映し出されるスクリーンの輝度などすべてが好条件にそなわった時、アナログフィルムはデジタルを超える含みの幅を持っている。しかし、なかなかこうした好機に恵まれることは少ないのだが......。<br />
「モスクワ・エレジー」の幕があがった。タルコフスキーの作品の引用とその合間にドキュメンタリーが入り、彼の生涯が一貫したナレーションで淡々と語られていく。彼が魅力的な人物で芸術にどれほど人生を捧げたかが伝わってくるすばらしい作品だった。映画は難しいと若き日のタルコフスキーは語る。芸術が監督をつかってつくらせるものだと言いきる姿勢に心うたれた。タルコフスー一家が春夏に過ごした家と、彼が若くして病死する前に植えた木が最後に映し出される。「サクリファイス」で描かれた象徴的なシーン、荒涼とした地に蘇る1本の伝説の木のがその時浮かんできた。ソクーロフの作品なのに、まるでタルコフスキーの作品が蘇ってくるような気がした。ふたりのファインダーの目を重層し、ひとつのフィルムにしたような作品だった。<br />
「日陽はしづかに発酵し...」は中央アジアのトルクメニスタンを舞台に、スターリン統治時代に起きた強制移住から発した民族問題や宗教紛争、ウラン採掘などの自然破壊と健康を害する人間など複雑な社会問題を描いている。背景は現代ロシア史を少し勉強しないと理解できない。原作はストルガスキー兄弟原作のＳＦ名作「世界終末十億年前」をもとに脚本が書かれ、演出をソクールフが手がけているという。燃える太陽に発酵し、やがて腐りはてるわたしたちの世界を地球規模で幻想的に表現している。フィルムの美しさを満喫した2作品だった。</p>]]></description>
            <link>http://www.mitsubachi-kibako.net/journal/2011/07/post-159.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">羽音のつぶやき</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 24 Jul 2011 23:24:15 +0900</pubDate>
        </item>
        
    </channel>
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