ボブ・サムの呼吸とわたしの深呼吸

|

亡き友人を偲んで直接か間接的になるかはまだ見えないが、「旅をする木」(仮題)と題して、もしくはテーマとして、もともと思案中のみつばちの木箱のイベントの中でなにかできないかと考えている。ただ、即時的な盛り上がりとか、思いつきのような形でことを運ぶのがもともと嫌いなわたしは、いつも時間がかかる。その間に大事なタイミングを逃しているのでは、という声もあるけれど、わたしは備えられた時というのが必ずあると信じている。だから「いまがその時ですよ」という原動力的なものが告げられないうちは、静観し、考察し、ものごとを思慮深くすすめたいというのがわたしのみつばちの木箱の姿勢だと思っている。
昨日、ひょんなことからボブ・サムのワークショップが開かれることを知った。ボブ・サムといえば星野道夫さんにつながる人物、予定を返上して当日の会場へ向かった。ボブの顔や表情、表現は異質だった。異質というと少し否定的に聞こえるかもしれないが、これまでに自分が出くわしたことのない感覚を持ち合わせた人なので、そう表現しておきたかった。ある意味、異様なのだが、受け入れる前提がすでにある集団においてその違和感はむしろ珍重され、ポジティブなエネルギーとして空間に還元される。互いを知り合うというのは深く大切なことだと思う。
ボブのワークショップがはじまった。靴を脱いで、楽な格好からまずストレッチをはじめた。わたしのお隣はなんと偶然この会場でお会いした菅啓次郎さん、実に光栄で嬉しかった。ストレッチというと一生懸命やってしまいそうだが、そんながんばりは必要なく、天井の梁に手をかけて脇をのばすような、ボブのストレッチは半ばゆるやかなポーズだった。輪になった手前の人の肩をほぐしてあげてから、片手をのせて自分の空いているもう一方の手で片足を持ち上げストレッチとバランスをとるポーズ。ポーズがアンバランスな参加者がいると輪が揺らぎ、気持ちにもゆるみが出て笑みが漏れる。これでまるで知らなかった者同士の緊張が解けて関係が生まれ、話の場が形成される。それからボブは観客の輪の内をのっそり熊のように、ぐるぐると周りながら、時にはあるひとりの人を選んで話しかけながら、ストリーテラーとしてのボブ自身の話をはじめた。ボブの声はとても静かだった。ボイストレーニングを受けたハリのある日本人歌手や俳優たちのような声質ではない。極論で言えば資本主義経済がよしとするところの売れ線の声とはかけ離れた声だった。ボブは「自分の声がいい声だ」と部族に言われ、語り部になることになったいきさつを話した。演劇学校に通い、彼はれっきとしたトレーニングを受けた語り部であった。数時間を共にし、ボブの全身から醸し出される空気とゆったりとした彼の時間軸、少しだけ母国語で語ったことばを耳にし、その魅力に包まれていく自分を感じた。わたしがのんびりしているというのとはわけがちがって、星野道夫の文章によく現れる悠久の時間につながるわたしの現状の暮らしにはないものを感じた。
はじめにストレッチをした脇はたくさんのリンパ腺があって免疫を高めるために働く部分だ。だからリンパの流れをよくするために、その部分を伸ばしてやる。手から足までを存分に伸ばし、リラックスさせる。筋肉が体を強くさせているように、声ももうひとつの筋力というわけだ。だから声を失わないために、毎日ボイストレーニングをして、自然な呼吸にあわせて、肺を開き、肺に声の振動が共鳴するように。いつも人前で話すときは、体が開放された状態にあること。そうすればエネルギーが波のように人へ伝わるという。声を失わないように、なぜなら声は人であるから。ボブのこのことばには、部族の悲惨な歴史や人間の尊厳につながるメッセージが託されている。
声に出して朗読することを、表現のひとつにとらえていたわたしに、また別の角度が与えられた。技巧や方法論というよりは、自己を知覚し、より自然な方法でわたしがわたしであることを伝える手段ではないかと。だから自然界の音、声から学ぶことをはじめていこうと思う。自然呼吸法の本を丁度読みはじめていたわたしにとって、このワークショプは偶然すぎる偶然だった。呼吸、声に出して話す、このふたつは当面わたしの次の広がりに大きなエネルギー源をくれることになる予感がしている。
昨年、友人の国内留学先?の但馬を訪ねてから3カ月あまりが過ぎていった。もはやその友人もその地を離れ東北へと帰っている。麦畑自然農場を運営されている上垣さんからいただいたはちみつは、見事に結晶した。この時間の経過でみつばちの果たした仕事のうつくしさにまた感動する。思い出深い但馬で「但馬のマチュピチュ」につれていってくださった新田さんから但馬を想い描くことのできるプレゼントとインドのはちみつが届いた。インドの旅blogを読ませていただきカオスだなと感じる。わたしたちは同国でさえ隣人のことはよくわからない。ましてや慣習が異なる文化圏の人を分かるには時間がかかる。異なることを知ると同時に、異なることをどう表現するか、それが互いの異なりを埋め合わせていくカギになるように思う。ボブ・サムに出会って自分の誇りと魅了の伝え方が平和を伝えるひとつの表現だと思った。

_DSC1554s.jpg