『ろうそくの炎がささやく言葉』朗読会 岩手県気仙郡住田町にて

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陸前高田市横田町 川の駅産直よこた すぐ近くの村を歩いてみた

今年の6月、勁草書房から刊行された『ろうそくの炎がささやく言葉』(菅啓次郎・野崎 歓編)は、筆者自らあるいは、さまざまな方たちの朗読による刊行記念イベントを各地で行ってきた。今回で3度目の参加になる。参加するごとにたくさんの学びがある。1回目は、震災後間もなく、まだ自分自身がもんもんとした心持ちの中、ろうそくの灯火だけで、書かれたテキストさえあれば読むことができる。電源が喪失しても、書かれた言葉にはそんな力があることをはじめて知った。2回目の参加は「朗読」そのもの、もしくは声に出して読むことの意義を深く考えさせられる会が、東京のArt+Eatで開催された。朗読を専門とされる方とひとことで言っても、盲人を対象とされる方や観客を対象とされる方とでは、読み方の技法が異なる。また声質によってテキストの世界は大きく変化する。自分で朗読をしている時でさえ、目で活字を追って読んでいる時とはちがう世界感が生まれてくることがある。この本を刊行するきっかけとなった3月11日の震災をゼロ地点にして、それ以降それぞれの筆者が立たされた境遇、対する思いなどによせて作られたものだ。今回は被災地に近い住田町で、被災された方々と共に集って、あらためて朗読を聞く機会が与えられた。そして、この夜ケセン語の聖書朗読を生まれて初めて聞いた。力強い音に驚きを覚えた。五島列島で見かけたキリシタンの方々の姿に通じる土着信仰的なものを感じたりもした。
朗読者は、翻訳家の柴田元幸さん、詩人の菅啓次郎さん、詩人のぱくきょんみさん、作家の堀江敏幸さん、医師でありケセン語訳聖書の翻訳者(気仙沼固有の言語)山浦玄嗣さん、合間のお話に、この本の表紙を飾られたダゲレオタイプ技法の写真家新井卓さん、そして勁草書房で編集にあたった関戸詳子さんというメンバーだった。定刻30分前にもなると、どこからともなく人々が集まってきて、あっという間に会場は60人ほどだろうか、席が埋まっていった。隣接する陸前高田市、遠野市、大槌町などからも参加された方がいた。わたしの隣の若い女性は住田町の方だった。朗読されたテキストはこの本の中からだけでなく、筆者が準備されてきたものもあった。ぱくきょんみさんは『そのコ』の中ら「わたしは、しない」というすべて否定形で書かれた詩を一編と『ろうそくの炎がささやく言葉』の中から「この まちで」を朗読された。「この まちで」を初めて聞いたのが6月の朗読会。「わたしは このまちを しっています」からはじまるこの詩は、見慣れた三角屋根の家にしらないおんなのこがまりを投げる前に「ぽーん、ぽーん、ぽーん」と、地面をついているシーンがある。「ぽーん、ぽーん、ぽーん」とはずむまりの音の部分がなぜかわたしの心に響いていて、なんでもない時でも「ぽーん、ぽーん、ぽーん」と心のなかで思い出したりする。ご本人にはお話していないけれど、浮かんでくる絵がある。それは、長谷川鄰二郎の「時計のある門」だったり、「荻窪風景」だったりする。鄰二郎の絵を見た時、無音の世界を感じた。時がどこかで止まってしまったような、連続する暮らしを一旦切断して、ある瞬間が切りとられたような、そんな感覚を覚えたのだった。「この まちで」を聞きながら、まるであの絵に伴奏がついたように調和して、わたしの心の底からイメージした「この まちで」の詩の世界が立ち上がってくる。
菅啓次郎さんはこの日もご自身で書かれた「川が川に戻る最初の日」を朗読された。3年間住んだソノラ砂漠から生まれたテキストだ。わたしはこのテキストのなかで毎回うなずく箇所が決っている。
「救われたのは、心だった。いま、日本の都会での毎日の暮らしに、どんなに暗い気持ちになったとしても、ソノラ砂漠の風景とそこに吹く熱い風を思い出すだけで、少しずつ元気を取り戻す。」「雨の匂いがまた強くよみがえる。夕方の光りの中で、年に一度の、名のない、単純なよろこびにみちたお祭り騒ぎが続く。
 それをぼくは「川が川に戻る最初の日」と呼んだ。土地と、雨と、植物と、動物と。過去少なくとも数万年にわたってこの場所で年ごとにくりかえされてきた、すべてが完璧な、晩夏のある夕方だ。」
ちょうど自分の仕事にからめて、今また星野道夫さんの『旅をする木』を再読している最中だ。この旅の道中も列車の中でこの本を開いていた。以前にもきっと同じ箇所で同じように共感を持って読んだはずのページの角が折り曲げられていた。それは「もうひとつの時間」というタイトルのエッセイだった。ある人から自分が見た壮大な自然の風景を愛する人にどう伝えるだろうかと聞かれた。その人は「自分が変わってゆくことだ......その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思う」と言ったという。人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世界へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。(一部抜粋)
こうした体験が一時的にでもあれば、人はそれを「もうひとつの時間」として想像することができる。たとえどんなに殺伐とした仕事環境にいたとしても、どんなにかけ離れた日常の暮らしを送っていたとしても、どんなに不幸せだと思っていたとしてもだ。星野道夫のことばは最後にこうしめくくっている。
「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは天と地の差ほど大きい。」
わたしは菅さんが書かれたテキストを聞いているとこの「もうひとつの時間」を一瞬体感することができる。逃避でも非日常を追うのでもなく、現実に自分がいま体験している一方で地球のどこかで、宇宙のどこかで「もうひとつの時間」も存在していることを意識できるのだ。想像力とはただ何かとっぴなアイディアを生み出すためのものではない。むしろもっと日常の中で、その日々を生きる生命力を支える力のひとつなのだと思う。わたしたちは自然界からその力を養い育てることができる感性を与えられている。そしてこの想像力と感性が希望をもたらしてくれるのだと思う。
大雨と強風の陸前高田の海岸線近くまで行った。ほぼ片づけられた瓦礫やゴミの山は物質社会の複雑さを物語っていた。ぼんやり佇んでいれば地鳴りのような余震もまだ体感する。亡くなられた方々のご冥福を祈ると共に、地球の威力がはかり知れないということをある意味具体的にはかり知る体験の旅だった。

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