エネルギーの話は個人から

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福島原子力発電所の事故以降、社会に対してなんらかの形でアクションを......と、思いつつ少なくとも「まず個人できることは何だろう」と、靄に包まれたような時間を過ごして来た。わたしの原子力発電エネルギーに対するスタンスは基本的に"No!"これは以前から変らない。しかし、これほど切実に感じたのは正直今回が初めてのことだった。レイモンド・ブリックス作の"When the wind blows"のアニメーションで原子力の怖ろしさを若い頃に物語を通して知った。そして、東海村JCO臨界事故で近隣が脅かされている恐怖に目を覚まされた感があり、六ヶ所再処理工場の設立あたりから事態は本当に怪しい方向へと、急速に進み始めた危機感を大きく覚えた。周辺の友人は反対運動を積極的に行っていて、活動のメールやお知らせを頂いていた。ただし、どことなく団体に所属して異議を唱えることが苦手なわたしは、これといった活動を共にしてきたわけではなかった。
横浜に、神奈川に、日本に、アジアに、地球に、宇宙に生きる一員として、生活のために必要なエネルギーを一体どう考えていったらいいのだろう。おそらく生活が単純であればあるほど、エネルギーの存在は見えやすくなる。ここに新しい土地だけ用意されて、「暮らしなさい」と言われたら、まず手始めに何をするだろう。水源を探し、煮炊きと暖のための火元があれば急場はなんとかなる。もちろん、雨風をしのぐ家も必要になる。人は生きる上で、温めるためのエネルギーがどうしても必要だ。そのために燃料を確保しなければならない。電力はそんな中で、クリーンなイメージのエネルギー代表選手として現代社会に不可欠なインフラに成長した。電車が走る、扉が開く、湯が沸く......あたり前のような事だけど、自動の裏側でいつも電気が流れている。そこに電力が通っていることさえも忘れて、わたしたちが日常に使用しているものは山ほどある。時代も電力主流の風に乗り、エネルギー資源やインフラの所有権を持つことで、世界をまたぐ特権が生まれた。水の仕組みにたとえてみれば、関係はわかりやすい。ある人が水を所有していて、隣人周辺から使わせて欲しいと申し出があった。使用を許した時から「では、そのかわりに...」という水に対する対価が望まれ、あきらかに従属関係も生まれる。所有者がいささか心の曲がった人であれば、所有権をだしに、すぐさま周辺の人々に圧力をかけて労働を課したり、脅かしたり、あるいは、所有権争いから暴力や戦いが生まれる。人間とは欲深い存在なのだ。エネルギー資源の獲得量と人間の欲望はきっと比例しているのだろう。果たしてそれが、健全な人類の発展だったのだろうか。原発銀座や人形峠などが矛盾をかかえた村の美しい悲哀の物語であってはいけないとわたしは思う。
ここまで長々と綴ったのは、なぜわたしが「No!」という立場を明言したかのわけだ。エネルギー資源は所有する者の力によっていかようにも左右される。戦争にもなるし、平和にもなる。そもそも地球の資源なのに、持つ者と持たない者との間に格差、不平等感が生まれることに対して大きな疑問をいだかざるをえない。そして原子力は何よりも生命を脅かす危険と隣り合せで、放射能汚染がいったん始まってしまったら、わたしたちは永遠の避難民と化して不安をいつも抱えることになる。核の平和利用なんてありえない。なぜそこまでして原子力エネルギーが必要なのか、自問自答しなければいけない。少なからずとも必要と思っていないマイノリティたち、エネルギー資源ジプシーたちも、大きな潮流によって選択する権利どころか拒絶すらできない現状なのだ。それが本当に元来の人間の条件なのだろうか。
鬱積したこんな思いの中、3.11以降、友人にすすめられて小出裕章さんの見解に耳を傾け、個人の考え方をあたためている。そして、先日NHKで放映された「ネットワークでつくる放射能汚染地図 福島原発事故から2カ月」に感銘を受けている。この勇気ある行動に、しばらく靄がかかっていた自分の思考を少しきり開いてくれたように思う。フィールドワークを忘れ、過剰な情報量に戸惑っている傍ら、こんな地道な実践活動で、わたしたちの命に警告を促してくれている小さなネットワーク集団に感謝とエールを送りたい。エネルギーのあり方に異議を取り立てている暇はない。現状を知りどう判断し、同行動するかは自分たちで考えることだ。エネルギー問題に責任を持つ行動を表明していこう。