セミフ・カプランオールの蜂蜜 

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「みつばちの木箱」を立ち上げたころは、なにかにつけてその活動にものごとを関連づけて考えるのが楽しくて仕方がなかった。当時はヨーロッパ映画を特に好んで見ていて、心に残ることばや映像から考えたことをメモに残していた。今ならtwitterでつぶやくような、そんなものだろうか。たまにそのころのノートを開いてみると再発見がある。忘れかけてはいたけれど、確実に自分の心に種をまいていってくれた痕跡が見つかるからだ。
みつばちのコロニーは雌と中性で主だった宇宙が秩序よく繰り返されている。みつばちたちは女王蜂に忠実で、その先に世話をしてくれている養蜂家の存在に気づいてはいても、一定の距離感があって自分たちに課せられた役割を果たすのに忙しくしている。その懸命な営みは、気づかぬふりをしながらも彼女たちの宿命であり、意志をもっているとするならば、使命になぞらえることができるのかもしれない。
みつばちのコロニーを束ね、育て、増やす手伝いをする養蜂家は男性であり、父であるという設定がわたしの中にいつのまにかできあがった。過去の歴史文献などで必ずしも養蜂家が男性の仕事に位置づけられていたわけではない。わたしが引用したり参照したりする資料や絵画などの多くが、まれに男性の養蜂家や修道士であったこと。養蜂を主題にしたフィルムの大半が、男性の養蜂家であることなどが影響しているのだろう。なかでもとりわけ刺激を受けたのが「ミツバチのささやき」(監督:ビクトル・エリセ)という作品だった。「父なる養蜂家」や父と娘の関係のイメージが重なり、深く精神性に訴えかけてくるテーマと詩的な映像の世界のとりこになった。みつばちの羽音は養蜂家によってことばの世界に導かれていく。さらにそれは、女性名詞の月を中心としてではなく、輝ける太陽を中心に、ミクロなみつばちたちの宇宙が壮大な宇宙空間によって左右されているとわかってくる。
前置きが長くなった。先日セミフ・カプランオール監督の「蜂蜜」という小作品の試写会に行った。愛らしい瞳の少年が蜂蜜を指先につけて口に運ぶ広告の写真などから、のどかな養蜂シーンに想像をふくらませる。しかし期待をうらぎるかのように、話は険しい山岳地帯に囲まれた森の奥地にひっそりと暮らす養蜂一家の日常で、フィルムは父親の「不在」という事故シーンからはじまる。父親は森に特定の場所をさだめて、高い木の上にはち箱を設置する仕事をしている。樹木に咲く花から濃厚な黒蜜を集めると、薬用として蜂蜜が高価に売れる。しかし、気まぐれな山蜂の養蜂は難しく、悪天候、野生動物や採蜜時の転落事故など、さまざまな危険と隣り合わせになる。主人公の少年ユスフはことばと心情のバランスが連動できない障害を持っている。自分をとり囲む小さなコミュニティで人と折り合いがなかなかつけられない。ことばの喪失と父親の不在というテーマを質素で凡庸な家庭にみいだした、みごとな映像美と哀しさをもちあわせた作品である。カプランオール監督はこの少年の成長を三部作で描いている。いづれも「卵」、「ミルク」という象徴的なタイトルは作品を見ることで、それが持ちあわす重さや味わいが一層深く理解できる構成になっている。公開は6月、すべての作品を見たいと思う。