文楽 人形浄瑠璃 重奏するテキスト

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2回目の文楽鑑賞をしたのは5月下旬のことだった。独学で現代美術の勉強をはじめたころ同僚に勧められた一冊に、ロラン・バルトの「表徴の帝国」がある。
バルトが日本を素材にテキストの表現体(エクリチュール)を読み解いていったこの本で、わたしは日本に生まれながらにしてはじめて日本文化に開眼した。
「表徴の帝国」でとくに印象に残ったのが文楽だった。人形を媒介にした表現の世界に関心が深かったわたしは、これを機に文楽観賞にいつか行きたいと思っていた。長い月日が過ぎたころ、ようやく実現したことに意味を感じている。ポスターやチラシで目にしていた人形の顔や衣装はかなりクローズアップされていたことに気づく。実際に劇場で見ると、人形の背丈は約1mから2mぐらいで、顔はとても小さく繊細だった。演目は1回目が「曾根崎心中」、2回目は「新版歌祭文」だった。まず、人形遣いをはじめとする役割から理解をしなければならない。人形は3人で支えている。顔を観客の前にあらわにしたまま、上体と右手を操る大夫。黒子をまとった助手のひとりは人形の左の腕と手を動かし、もうひとりは這って人形の体を支えながら歩かせていく。舞台に向かって右手に高座があって、語り大夫と三味線弾きが座る。読まれるテキストは左右のスクリーンに表示される。拍子木がなって幕があき、語り大夫が詞章をもちあげ一礼して開演となる。
バルトは文楽の構造を「芸と労働を同時にさらけだす」といい、分割した行為を三つの表現体としてこう書いている。

つまり《文楽》は、舞台の三個所から、同時に読みとってもらうようにと別々に表出される三つの表現体(エクリチュール)を用いる。すなわち、操り人形、人形遣い、声師、である。外在化される動作、外在化する動作、声の動作、である。
「表徴の帝国」三つの表現体から

バルトは太夫、三味線、人形遣いの三役がそれぞれを押し出すことなく、断絶しながらも物質化した人形を蘇らせていると記している。西洋の舞台演劇が身ぶり以外のなにものでもないことと比較すると、文楽は行為と身ぶりが分離しているという。東洋の女形は女性そのものをすっかり真似て、あたかも真実であるかのように表現はしない。あらかじめ見られるものとして現前させているのではなく、あくまでも表徴の現前化になる。それはまるでテキストをある言語から異なる言語に置き換える際の粗訳のような状態といえる。さらにバルトは、「わたしたち西洋人の聞いたこともない効果があらわれでる。声から遠く離れて、しかもほとんど身ぶりなしに、一方は人形に移された表現体、他方は動作による表現体、という二つの沈黙の表現体が、特別な昂揚をうみだす」と、解いている。西欧の役者は情念と筋肉という組織体を体技に従属するものととらえ、肉体の原質になろうと個性化を克服していく。造形の原質になろうとはしない。文楽は「魂あるものと魂なきもの」という基本的な二律背反を扱いながら、そのいずれの側にも偏ることなく背反を消滅させているという。人形は「生命がない物質」とあらかじめ約束しておくことで、より生命感を完成させている。この完成度が決して論理に裏打ちされたものでない点が非常に日本的であると感じる。

自分だけ表現しているわけでは決してないもの、それを、自分の個性で引きうけられるわけではないのだから、現代的なテキストにおいてと同じく、基準(コード)、照合事項、断片的な決定事項、アンソロジーをつくる身ぶりの数々、これらの編みかたが、なんらかの形而上学的な訴えの効力によってではなくて、劇場の空間全体のなかに開かれる配合の芸の力によって、書かれた文章を多層化するのである。編むことによって始められたものを、配合の演技が休むことなく継続させるのである。
「表徴の帝国」三つの表現体から

物質に息吹をそそぎこみ、肉体を蘇らせるのではなく、肉体の感覚的な世界を抽象化しているとバルトは語る。実際に鑑賞してわたしはもっと人形に感情を寄せられると考えていたが、自分の五感を働かせるのに実に忙しく、感情投入するいとまはほとんどないといってよかった。西欧的なエンターテインメントが先行する時代に育ったわたしは文楽が非常に異質な文化と感じ、すぐにその世界に馴染むことは難しかった。バルトの解析なしにはむしろ楽しめなかったといえる。

脆弱、慎重、豪華、未曾有の陰翳をあわせもち、いっさいの通俗を破棄し、動作の旋律的な分節法をもって、要するに古代の神学が輝かしい肉体のもつものと夢想した性質そのもの、つまりは非常、明晰、敏、精緻、これこそが、《文楽》の完成しているところのもであり、それこそが《文楽》の呪物、肉体を愛すべき肉体に転身せしめるものであり、それだからこそ《魂あるものにして魂なきもの》という二律背反を拒絶して、物質のいっさいの《入魂》の背後に隠れている概念、つまるところは《魂》という概念を、文楽が追放するのである。
「表徴の帝国」魂あるものと魂なきものから

劇場という環境に立体的に重奏するテキストのバランスを引き続き体感しに通ってみたいと思う。