ウィリアム・ケントリッジ 思考をかたちに

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木炭のドローイングとコマドリの間隔に特有の余韻を持ったアニメーション作家ウィリアム・ケントリッジの作品を誰とは知らず、最初に目にしたのは、横浜トリエンナーレだった。南アの作家ということだけはっきりと覚えていた。当時のわたしは、ユーリ・ノルシュティンやイジー・トルンカなどが作ったアニメーションフィルムの世界に興味を持ちはじめていて、友人の主宰でクレーメーション作りに加えてもらっていた。ウィリアム・ケントリッジの素朴な作品を見たとき、シンプルに描かれた線でこれだけのものが表現できるのだと思い、企画中だったウェブサイトの中でまだどこにも公開していない母の記憶をベースにしたお話のシーンに、年表的なアニメーションをひそかに作成しようと思い描いていた。それは未だ完成をみていないけれど、ウィリアム・ケントリッジ展が東京都近代美術館で開催されて、本格的に彼の作品に触れることができてあらためて刺激を受けている。新聞の文化欄の批評を見て、「あのときの作家......」と思い、いつ展覧会会場に行けるだろうかと機会をねらっている矢先に友人のyamaさんからもメールをいただいた。こうなると「ただちに見に行くように」とどこからか誘われているように思えてきて、いてもたってもいられなくなる。
落ち着いたモノトーンの映像の世界を詩に変えていく音楽の役割が美しいなと思った。会場の1室で複数のフィルムを同時上映していて、自分で音声ガイドのスイッチを映像チャンネルにあわせて切り替えるコーナーがあった。混雑の関係と残された時間も少なくすべての上映作品を見ることができなかったので、わたしはzapping方式をとってこの会場を楽しむことにした。暗がりでチャンネルを変えているうちに、見ているものと音声が一致していないことに気がついていたのだが、自分が好みの音楽で映像を見てもなんら支障はないように思えた。反戦をテーマにした実写版フィルムとドローイングが切り替わる映像作品や、本人自らが出演している作品も多数ある。薬箱やテーブルというフレームをつけて、その中で展開される映像もある。わたしは、薬箱の小作品がとても好きだ。「月旅行」できらめく星のシーンがみつばちではないかと思いきや、アリの実写を反転させたものだった。一人の世界に閉じこもり、アナログ的な技術で身近な素材を使って自己完結をさせている作品が垣間見れておもしろい。
最後になってしまったが、会場の入口でmemoと題された作品は、レイモン・クノーの「文体練習」の作品を思い浮かべながら見てしまった。