地下鉄のザジ

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ルイ・マル監督の「地下鉄のザジ」のビデオを借りた。BSで何度か放送されたことがあるので見るのは3度目ぐらいになる。コミカルでドタバタの内容はあまり好みではないのだが、今回ほどまともに見たのには理由がある。原作者がレーモン・クノーだということを知って興味を持ったからだ。少女ザジは田舎からパリへわざわざ地下鉄に乗りたくてやって来たのに、労働ストライキで地下鉄は閉鎖されていた。「地下鉄のザジ」というのに地下鉄の場面はひとつも出てこないまま、この映画は終わる。母親のデート泊のあいだ叔父の家に預けられたザジがそこを抜け出し、ストライキで混乱するパリの街中をかけ巡り、おちゃめな騒動を起こしながら大人たちを巻き込んでいく。クノーを理解しようと思ったら、フランス語がわからないとかなりむずかしいと感じる。会話のなかにきっとことばのおもしろさ、あそびが巧みに組み込まれているはずである。少女の見たパリは人も街もストライキにもかかわらず活気に溢れ、色恋や芸ごとに刺激的な街だった。夢かうつつかはっきりしない大人の世界と外界の街をつなぐザジが、最後に「地下鉄には乗れなかった」とぼやくシーンで、はじめて過ごした日々の現実感が湧き出てくるから不思議だ。なんということもない日常を非現実的に描くことでエッフェルを象徴とするパリの魅力が引き出されている。
寝ても覚めても今考えを巡らしているのは、わたしのポートフォリオ制作だ。ポートフォリオというと、多くの人は自分のこれまでの作品を集めて撮影や再収録をしたり、主なプロフィールを年代順にかかげて「わたしは何者で、何をやっている」ということを他者にわかりやくすアプローチするツールだと思う。わたしは、自分の詳細や何者であるかをできるだけ省略したものをつくろうと考えている。過去につくりあげたことが、現在に置き換えられて、なおも生命力を持ち続けていなかったとしたら、過去のものは過去の遺物でしかありえない。しかも、自分が何者であるかは自分にはわかりにくいものである。それなら、わたしがコアに考えていることで、そこからあらゆる活動の創造が生まれる根っこの部分をポートフォリオにして、それ自体が作品であることの方が魅力的ではないかと考えている。
昨年末、いつもとりとめのないわたしの考えを形におとしていく作業を一緒にしてくれている友人と、造本の部分を着手しはじめた。そのヒントにレーモン・クノーの『文体練習』という本を教えてくれた。書き言葉を演習的な構成で作品に昇華させている点に非常なおもしろさを感じている。
ポートフォリオは、あらかじめ内容がすべてできあがっているところから、再構成をはじめている。すると、あやふやな部分や余計なものがあることに気づく。内容の順位に大きな意味はもたないが、当初考えていたものとは入れ換えをしたり、もくじをたててみると、各章のタイトルのもつ力とはなんだろうと考えはじめたりする。自分が考えるテキストの比重を検証しなおし、意図を無意図的になるように置き換えなおしている。一度考えたこと、たどりついた先を更地にならすような作業に近いなと思いながら......。

みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。