レベッカ・ホルン展へ

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楽器の葬儀
身体は、ヴァイオリンは、まだ線路の上で眠っている
救済が届けられることを辛抱強く待っている。
車両がヴァイオリンの首を轢き、
砕かれるときかすかに弦が鳴る。

空虚というサボテンを飲み込む

ブナの森の背後、エッタースブルク城までひとつの弧を張り渡す
蜂は中心を失い
厚い雲となって空高く飛び回る
光り輝く籠の巣は見捨てられた。

移ろう光りの島はさまよえる者たちを探している
逃亡の軸を引いて
逃げる彼らに追いつき
光の惑星の地図を新しく定めるために。

蜂の籠、群れの移ろう光、
破壊を免れようとする試み。
錬金術に身を委ねて。
水鏡は、カイエンペッパーとともに熱せられて血に変わり、
火で蒸発して灼熱の光と化す。

光が蜂たちの島を変化させる
群れはひとつまたひとつと破壊される
永遠の放浪と探求
文字、
暗い水のなかの徴
風は、砂に徴を書き込み、
砂の徴を変える。

ブーヘンヴァルトのためのコンサート、パート1 路面電車の車庫、パート2 エッタースブルク城  レベッカ・ホルン

テキストは東京都現代美術館で開催中のレベッカ・ホルン展のカタログから抜粋したが、今回の展覧会には出展されていない作品だ。カタログのページをめくっていくうちに、天井からつるされた蜂籠が目に飛びこんできた。みつばちは女王蜂という中心に向かって羽をふるわせ、くり返し労働をする。一塊の群で機能をするが、中心を失ったとたんに群は崩壊にむかう。新しい女王の誕生に従って、巣分かれをし新たな定着の場を探し求める群もある。巣はみつばちの内なる世界だとわたしは思う。ディアスポラの概念を蜜蜂の群にたとえたホルンの作品にまたひとつ、みつばちへの解釈が深まっていく。
ホルンのバイオグラフィーから想像をすれば当たり前のことだが、展覧会会場は女性性が強く打ち出されていると感じる。それを単純に「女性」ととらえるか、「身体」ととらえるかは、観客側が立たされている広義での環境や感覚の関係性によるのではないかと思う。本来、苦手であるはずの女性的な象徴が、時間空間のなかで静止したり動きだしたりして対話を生む。彼女の表現力には冷静に保たれた距離感がある。それは彼女の病床体験が客観的に精神と身体を見つめたゆえに、身体の機能を知覚化することに向かわせたのだろう。作品の代表的なモチーフは羽毛、靴、水面、蝶、箱などがある。静止していれば、絵画のような構図でしかない部分が、ある瞬間にゆっくりと動きはじめる。動きは突拍子のないものではなく、むしろあらわにされているからくりの線上をたどれば、単純な動きの繰り返しであることは予想がつく。予想がつくにもかかわらず、じっとその動きに目をうばわれ、時を忘れながらも、時を感じる。相似形が対峙する作品と何度か通って対面してみたいと思っている。