ものを生みだす労働

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わたしがつながっていたい世界のことをいつも覚えていたいために

砂澤ビッキのアトリエ3モアのこと、砂沢クラさんのことを以前に書いた。わたしが親しくしていた亡き友人が土産物用の工芸品をつくるアルバイトをしていた話を聞いたことがあってか、ビッキやクラさんたちが生活のためにやっていた熊彫りの仕事の手伝いが妙に響いてくる。アトリエ3モアでは、ビッキの奥さんか娘さんが、そこでしか販売しない手芸品をつくっている。ビッキがデザインした木彫りの工芸品はユニークで美しい。ここの土地ならではということよりは、むしろこの人にしかできないものをつくっていることにわたしは注目をしている。
わたしはコレクター的な視線はあまり好きではないし、興味もない。そこには一種のポリティカル・コレクトネスが働いてしまう気がするからだ。そう言いつつも、北米インディアンがつくりだすカチーナドール、装身具やモカシン、イヌイット族がつくるイヌイット人形やカミック、マクラク、サーミ人の衣装や工芸品、南米インディアンたちの織物や刺繍と数えきれないほどのものに魅了されている。美術工芸品を目的に生みだしたというよりは、暮らしのなかに必要とされた機能の結果できたものや機能に解消できない神秘性をおびたものに、いっそう心を動かされるのだ。そういうものを少しだけ所持しているのは、「そこ」とつながっていることを忘れないために、そしてわたしもわたしのそうした必需品を自らの手でつくっていきたいからだ。貨幣さえあれば、人に発注をして自分の手元に置くことができるようになった現代は、ものに託されていた元の意味性とは切断されたかたちで価値がつけられるようになった。わたしは、むしろそのものを自分の生活に使って暮らしたいと考えている。願わくば、自分でつくりだして行けたらその方がどんなに幸せだろうと思う。ビッキやクラさんの話には、そうした「もの」と労働の関係がはっきりと浮き彫りにされている。生活のいとなみとは本来は芸術を生みだすこととそれほど遠くはなかったと確信できる。伝統文化と呼ばれるほどの大きな線上にある大作というよりは、日々の暮らしのなかで生まれつづける小作に目をむけて生きていけたらと思う。流派や流儀ということではなくて、人が人として敬虔に生きた痕跡でいいのだと思う。