静かな地方都市

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秋の連休をシルバーウィークといって、経済効果に多少の狙いがあったにもかかわらず、北見、根室、帯広や旭川の駅前周辺の街は閑散としていた。北見や旭川市内でお話した方たちによると、不景気の波が押し寄せていて、大型店舗が相次いで閉店をしているという。ゴールデンウィークに比べれば、道内の観光客は若干増えたといわれていたにもかかわらず、旅の途中でちょっとした買物をしようとふらついても、お店が閉まっていたり、人もそれほど歩いていない。日頃、人ごみでごったがえした新宿の街を歩いているせいもあるが、シーンとした街の中心は、それにしても比較の対象にならない静けさだった。牧草地帯や原野で、人や対向車とあまりすれ違わないのは当然のことだが、街中で人気や活気を感じることができなかったことに不安感を覚えた。少し混雑していたのは、一部の鉄道路線で、しかもその大半が道内以外からの観光客だった。網走から標茶まで釧網本線に乗り、標茶から標津までは生活交通路線として指定を受けている阿寒バスを利用した。一部の村と村の区間をぽつりぽつりと高校生が乗っては来るものの、バスはたちまち、わたしの貸しきり状態になる。観光バスではないので、村から村をつないでいくルートになる阿寒バスや根室交通が運行している路線の景色はすばらしい。しばらくは民家が続き、店や工場が点在するが、15分と走らないうちに広大な牧場地帯に向かう。牧場地帯のバス停では下車する人も乗車する人もいない。美しい風景のなかをバスはどんどん駆け抜けていく。通過するだけなのに知らなかった土地、読めなかった地名が急に自分とかかわりができたような気分になる。町や牧場地帯の様子もよくわかる。列車はといえば、わたしが乗った花咲線や宗谷本線の大半が無人駅だった。普通列車はおおむね1両編成で、主要都市を結ぶあじけない特急が1日に数本、走りぬけて行く。とにかく大地は広い。この空っぽな地は一体これからどうなるんだろう。そんな思いが込み上げてくる。人は、こんな寂しい場所で自然と向かい合いながら生活の営みを続けていけるのだろうか。人恋しいとか寂しいという限界を越えて、もはや空虚な感じがただよっている。坂本直行さんの「雪のあしあと」が思い返されてくる。帰ったらもう一度本を開きたくなるだろう。ごく稀な乗客のために、厳しい自然環境を通過していく公共の交通機関が、はたしてこれから先も存続してくれるのだろうか。いや、存続してほしいという願いは心の底からある。でも、わたしに一体なにができるというのだろう。
花咲線の途中に厚床という駅がある。中標津からの連絡バスに乗って、厚床駅までたどり着くことができた。駅に到着すると降りぎわに「何にもない所ですよ」と、バスの運転手さんにいわれた。その言葉どおり何もない。ガラリと駅の戸を開けて待合室に荷物を置いた。ガラス戸の向こうのホームと線路には淡い黄色の草花が咲き乱れているではないか。わたしはホーム側のもうひとつの扉を開けてみた。「わぁ」思わず歓声をあげた。駅中が花につつまれ、どこまでが駅でどこから先が原野なのか見境さえもつかないこの駅に呆然とした。美しすぎる。連絡の待ち時間の50分はたいくつするどころか、時間が停止したこの駅にすっかりとり憑かれてしまった。
「何もないということは、何かある」ということだと思った。